多数決の限界





チャーチル英国元首相の皮肉たっぷりの名言「民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば」ではないが、民主主義はそれなりに意味がある政治システムである。しかしその意思決定が多数決というシステムに基づいている以上、選択の正しさに対して「多数であること」が意味ある問題なのかと無い問題なのかによってその妥当性は大きく変わってくる。

ベンサムが唱えた功利主義の原則である「最大多数の最大幸福」が実現できる場合には、多数決は極めて有効である。ストレートに言えば、原資があってそれをどのように人々に分配するかという「バラ撒きの方法」を決めるような場合である。そういう意味では行政的な面での意思決定においては民主主義はかなり「正しい」判断と一致する。地域の運営などでは、かなり古い時代から慣習的に民主主義的な手法が取られてきたのはこのためだ。

「意思決定」をしなくてはいけない局面では、必ずしも民主主義が向かない場合もある。責任者が肚をくくって自分の責任で意思決定しなくてはならないような状況だ。民主主義というのはある意味「一人一人の無責任」の総意に基づいて進路を決める仕組みである。有権者が「肚をくくった決断」をするということは、ほぼ考えられない(小さな地方自治体などで、住民全員に直接かかわる一大事が起きた場合ぐらいだろう)。

特に想定外の有事に対しては、民主的な意思決定というのはしばしば道を誤る原因となっていることは、近代の歴史を見ればよくわかる。有事への対応で増税などのようにそれなりの負担が生じてしまう場合には、人々はえてしてやらなくてはいけないことはわかっていても反対しがちだ。昨今のキナ臭い国際情勢の中、軍事力強化を表立って掲げられるのは独裁的な権力構造の国だけで、民主国家はその財源をストレートに積み上げることは極めて困難だ。

その一方で戦争などの場合は、ポピュリズム的に何も考えずにリスクを顧みず上げ潮の勢いで大衆が大賛成し戦争への道をまっしぐらということもある。太平洋戦争前夜の日本では、既存の権力層は戦争に反対していたにもかかわらず、無産者層とそれを煽るマスコミが数の力で戦争への道を歩ませたことは、事実として記録に残しておかなければならない。これも普通選挙が行われず、明治時代のような藩閥政治が続いていたなら、第二次世界大戦の枢軸国側となることはなかっただろう。

声の大きい一部の活動家ばかりが目立って、あたかもそれがオピニオンの主流であるがごとく見えることも多い。いわば多数派の偽装である。イーロン・マスクがツイッターを買収して改革し、ユーザのタイムラインをかなり声の大きい一部のユーザを偏重するバイアスのかかったものから、実際のユーザ数を反映した中立的なものにしたことで、ネット上に見える「輿論」が全く変わってきたことからもこれはわかる。

ところでAIの時代である。今見たように民主主義がウマく機能するのは行政的な意思決定である。ここにおける全体最適を行うシステムとして、産業社会においては民主主義が最も効果的だった。ところがAIが実用化されたことで、民主主義的意思決定以上にウマく全体最適を実現できる可能性が生まれた。与条件を正しくインプットできれば、AIシステムは選挙や議会制度以上に「最大幸福」を実現できる。

こうなると、もはや残るのは多数決に基づく民主主義が必ずしも最適解をもたらすとは限らない「戦略的意思決定」だけになる。それを今と同じ政治制度で行うには無理がある。そしてそのような戦略選択は、演繹的な最適解では意味をなさない。有事に秀才がリーダーシップを取れないのと同様、AIも頼りにならない。これこそ人間が勤めるべき役割である。肚をくくってリーダーシップを取れる人材を、しかるべきポジションに就ける。これこそがAI時代の歩き方の基本だ。



(23/12/01)

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