虚構の権力





産業社会の時代、特に日本のような後発先進国で重用されたのが「秀才エリート」である。ベンチマークできる先発先進国が目の前にいる以上、ひとまずはそこに「追いつく」ことが社会的にも経済的にも目標となる。それを最も効率的に実現するには、無から有を創造できる人材よりも、現実の目の前にあるモノを手際よく学習し我が物とできる能力に長けた人材が何より役に立つからだ。

よって、記憶力と再現力が優れた人材が重視され、教育システムもそのような「秀才」を育成するメソッドが中心となった。確かにその結果日本は経済発展し、列強の支配下に置かれなかったばかりか、高度成長を遂げて先進国トップ集団の仲間入りすることができたので、それなりのメリットはあったということができる。しかしそれは先頭ランナーのデッドコピーでしかなく、永遠の「Japan as No.2」にしかなれないものだった。

それは彼らができるのは、勉強したものからの演繹的な展開だけに限られるからだ。秀才は、自分の発想で何かを今までにない新しいモノを創り出すことができない。1を100にするのは得意だが、0を1にすることはできない。その理由は「自分」というアイデンティティーを持っていないからだ。自分というアイデンティティーは勉強とか努力とかで後天的に得られるものではなく、生まれながらにして持っているものだ。

まだ貧しい社会の頃は、秀才の活躍する場も多く、役に立つので廻りもちやほやしてくれた。だが、段々社会が豊かになってくると、生まれながらにして自分を持っている人材が、その個性を活かして活躍する場が増えてくる。特に才能にも金にも恵まれて生まれてきた人材は、自力でベンチャーをスタートアップさせて成功するなど、圧倒的なパフォーマンスを発揮できるようになる。

こうなってくると秀才君は、なまじ学習力・理解力があるだけに、「自分を持っていないから、借り物の知識だけで中身がない」ことがコンプレックスに感じられるようになる。とはいえ、これは彼等が得意な勉強と努力でなんとかなるものではなく「ないものはない」のでどうすることもできない。となると、残された道は一つ。おいおいエリートの地位を利用し、金と権力でできることで虚勢を張ろうとすることになる。

要は見栄と背伸びの積み上げだ。成金がブランドもので固めたり、高級車に乗ったり、「いい女」を連れて歩くことで自分を演出したりするのと同じ。中身がないからこそ、金ピカに飾り立ててさもスゴく見せかけたがる。もっともこれで騙される人よりも、ハダカの王様を見抜く人の方が多くなってはきているが。高級官僚が退職後にそれまでの賃金より一桁上の年収と社会的地位が得られる「天下り」に固執するのもこれが理由だ。

秀才エリートは過去の成功事例の組み合わせ以上のことはできず、実は本当のソリューションを生み出すことができないのだ。彼等の実績・業績は、こういう類のものしかない。それでも「追いつく」ことが目的の時代には、それで事足りてしまったというだけのこと。その一方で情報社会では、それでは通用しない。そればかりか人間ではかなわない超秀才というべきAIが登場してしまっている。時代はもはや生身の秀才を求めてはいないのだ。

彼等は自分を持っていないので、想定外の事態に出会ったとき、肚をくくって決断することができず、対応することができない。想定外の事態とは、過去に参照すべき答がない状況ということである。自力で今までになかった答をひねり出せなければ、想定外の事態を解決することはできない。そのためには自分の責任で肚をくくった決断をするしかない。そのための前提条件が、しっかりとした自分を持っていることである。

よく「危機対応マニュアル」の必要性が語られるが、本当の危機的状況ではマニュアルで想定していない状況が連発する。マニュアルに書ける事態は、実は「想定内」なのである。事態に直面して、自分の責任で自分で判断して対応を決める。危機対応で本当に必要となるのはこのリーダーシップである。高級官僚を見ればわかるように多くの秀才エリートにはリーダーシップを取る資質がない(例外も無いわけではないが)。

実はここが決定的な急所なのだが、敵もさるもの。こういう想定外の事態に対しては周到に逃げ道を用意しているのが常だ。ヤバい事態が起こりそうになったら、それに真っ向から向かっていって解決するのではなく、火の粉が降ってくる前に足早に逃げてしまう。役所と仕事をしたことがある人なら経験していると思うが、官僚の行動様式などまさにこれで、ちょっと逃げ遅れたヤツを人身御供にして、みんな蜘蛛の子を散らすようにいなくなる。

こういうときは先回りして、彼らが密かに作っていた「脱出口」を裏から塞いでしまっておくと、一網打尽にできる。まあ、これはずる賢さ比べだが、官庁やそれに近い体質のNHKとか銀行とかと仕事をする時には必須となる。斯様に秀才エリートとは、知識で上塗りした張子の虎なのだ。AI化を一番怖れているのも、彼等秀才である。それなら早く秀才の化けの皮を引っぺがしてAIに変わってもらおう。もう時代は変わっているのだ。



(23/12/08)

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