他人の評価を求めるな





他人から評価されることだけを重視する人がけっこういる。もともと自分を持っていないため自分の行動やその結果に自信がなく、他人から評価されて初めてその価値を受け入れることができるタイプである。もちろん他人から褒められたり好評だったりすれば、それはそれで気分はいいだろう。しかし、それは自分として自信をもって世に送りだした作品が評価されればこそである。

一方ビジネスにおいては、他人というかマーケットから評価されるというのは確かに重要な問題である。そもそもマーケティングとは「マーケット・イン」を実現するために、ターゲットユーザたる生活者が求めているものを前もって知ることから始まる。量販されるマス商品である以上、作る側の思い込みだけを色濃く反映した「プロダクト・アウト」では誰も見向きもしないだろう。

しかし、ビジネスだろうとアートだろうとスポーツだろうと、ある種の創造性が問われるクリエイティブ性が高い活動において、他人の評価以前にそれとは全く独立した問題として「自分としての満足感」がどれだけあるのかが、作品やプロセスに込められた熱意をもたらす前提条件として極めて重要になる。他人のために他人が求めるまま作るのは「職人」であって「表現者」ではないからだ。

実は作品としての評価は、長い目で見ればこの「込められた熱意」方で決まってくる。もっというと、作られたものが「商品」ではなく「作品」になるかどうかの違いは、ここにあるのだ。そもそも世の中に創造性の高い作業をできる人は限られているので、一般にはなかなか理解されにくいのだが、実際に作品を作れる人の間では、これは最も基本的で最も重要な基本理解となっている。

「職人」ならば、全て施主の希望通りに作るのだから、他人に評価されることが第一でも当然だ。そういう意味では、プロとして活躍する人の中にはお客さんの心を読んでヒット狙いの職人芸を発揮できる人も多い。こういう作業の時は、自分の作品としての完成度より、他人からの評価を得やすい作品を作るのだ。こういう作品はそれなりにヒットして時流の話題になるが、いつの間にか記憶から消えてしまう。

そして、このような「職人芸」にはAIはかなり強いはずだ。ハーレクイン・ロマンスやライトノベル的なストーリーなら、AIはかなりアトラクティブでワクワクするお話を次々と生成してくれるだろう。また、水戸黄門や大岡越前のような「キマリ」のあるシリーズものの脚本などというのも得意そうだ。いいかえれば、この手の領域においてはAIが重用され「作品職人」の出番は激減するであろう。

その一方で「一発屋」というのがある。シンガーソングライターとお笑い芸人に顕著に見られるが、その曲やネタが長く人々の記憶の中に残っているからこそ「一発屋」として心の片隅に残っている。そこそこ人気があったが全く記憶のカケラすらなく消えてしまい、「一発屋」にさえなれなかったタレントの方が数的にはよほど多い。「一発屋」になれるのは、一生に一度出せるかどうかという弩デカいホームランを打ってしまったからだ。

つまり、人々の心の中に残っている「一発屋」の弩デカい大当たりは、狙ったモノではないからこそ大きかったということになる。彼等がもし職人的に「狙いに」いって当てたのなら一発では終わらずある程度全盛期を続けることができただろう。とはいえ、そういう職人芸では、全盛期を過ぎると共に人々から忘れられ、「一発」も残らないことになってしまう。

AI時代においては、秀才がAIに勝てないのと同様、職人もAIには勝てない。もう人間がそこを狙いに行っても轟沈するのが目に見えている。他人の評価を勝ち取ることについては、AIには勝てないだろう。1を100にするのは、もうAIに任せた方がいい。人間は0を1にすることに専念すべきだ。それが本来の人間の役割である。他人の評価を求めるな。ひたすら自分の満足を追求しろ。全て結果がウマく行くわけではないが、少なくともそこからしか人類の未来は開けてこない。



(23/12/15)

(c)2023 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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