天才と秀才を分ける壁





あなたは自然のままに音を聞き分け、色を見分けられているか。こう問われた時、どう答えるか考えてみて欲しい。人間は自分が受け止めるようにしか外界の情報を認識できないので、こういう認識の分解能の違いがあることに気付くことなく、あるがままに受け止めていると思う人がほとんどだろう。ところが実はこの受け止め方は人によって驚くほど違うのである。同じものを見ても、百人百様。みんなバラバラで異なっている。

日常生活の中ではその差はなかなか見えてこない。しかし、絵を描いたり、文章を書いたり、音楽を奏でたりと、創作系の活動をするとかなり違いがはっきり浮き出てくる。多彩な色をそのままに受け止めて再現できる人もいるし、12色の色鉛筆にしかならない人もいる。音符の微妙な装飾やグルーブ感を受け止めて奏ける人がいる一方で、音程は単純な平均律で4分音符は全部同じ長さにしか聞こえない人もいる。

これは脳の中での認識の構造の違い基づくものである。人間の認識の特徴は、あるがままのアナログ情報を扱う動物的なウェルニッケ領野とテキストや数値など整理されたインデックス情報を取り扱う前頭葉のブローカ領野とが弓状束で連動することで、膨大な認識情報を高速に処理できるところにある。ハードウェア的にはこれは共通の構造だ。しかし、そこでのリソース配分と、それを駆使するいわばOSが違っているのだ。

高速GPUではないが、ウェルニッケ領野のアナログ情報処理が高速な人は、とにかくインプットされた外界の情報をアナログのまま認識できる。その上でそれを言語化することなく再現できたり、ブローカ領野のデジタルな「知識」とマッチングすることで応用したりする。一方でアナログ処理が不得意な人は、ブローカ領野の既存の知識とのマッチングの中から、「それが何か」を認識しようとする。この違いが認識の違いを生んでいる。

虹を「7色」に見てしまう人がいる一方、虹の中に多彩な色のスペクトラムを認識してその通り再現できる人がいる。これはまさに脳の中での認識法の違いがもたらした結果なのだ。虹を見てロジカルに「虹」と認識して、すぐさま知識としての「虹の7色」という情報にリンクさせてしまうから7色に見えてしまう。虹以前に「キレイな色」を認識すればそこにカラーパレットのような256色以上のスペクトラムが見えてくる。

景色を見て「青い空、白い雲、緑の森」としか捉えられない人も同じだ。知識とのマッチングでしか認識ができないから、こういう紋切り型の認識になってしまう。文章でもグルメレポートでも多彩な表現が出てくる人は、たくさんの表現例を知っているからいろいろな言い方ができるのではなく、あるがままにモノを見て感じられるから、それがそのままストレートなコトバになって表れてくるだけである。

日常の生活でもこの認識の違いが表れてくることがある。方言や外国語の音をそのまま受け止め、聞けばそのまま声に出すことができる人がいる。外国語がのマスターが速い人には、結構このタイプが多い。その一方でどうしても違いが聞き分けられず、「カタカナ英語」「ローマ字英語」みたいになってしまう人もいる。これもアナログな情報をアナログのまま認識・処理しているかどうかにかかっているのだ。

もっというと、先入観や常識・定説でしかモノを見れない人がいるというのも、この認識の方法の違いによる。当然、演繹的にしか物事を理解できないか、バックキャスティングで物事を理解できるかの違いもここに基づく。ブローカ領野先行でウェルニッケ領野に繋げば当然演繹的思考になるし、ウェルニッケ領野の認識をブローカ領野で再構築するのはまさにバックキャスティングそのものである。

実は秀才と天才の違いもここにある。秀才の多くは、理屈先行で知識・前頭葉とのマッチングで物事を捉える人である。その方が「試験でいい点を取る」にはパフォーマンスがいいからだ。しかし、それでは知識すなわち「先人の残したレガシー」を越えることができない。天才は、膨大なアナログ情報をアナログ情報のまま画像検索のように情報処理できる。これは脳の機能的な違いであるからこそ、越えることができない壁なのである。


(23/12/29)

(c)2023 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる