AIが救世主となる人達





言われた通りにはできるが、自分で考えて応用できない人。こういう人は日本人にはかなり多い。無から有を思い付ける天才は極めて少ないのは当然だが、基本知識を組み合わせて応用しソリューションを導き出せる人も決してあまり多くはない。近代日本の教育が、知識の促成栽培に終始して「考えること」を軽視してきたゆえに、覚えた知識をストレートに適応すれば解決できる問題には対処できても、ちょっと異なる点があると応用が利かなくなる人が過半数だ。

単純作業の繰り返しなら、一度教えれば後は同じパターンの繰り返しで済むので、こういうタイプの作業では「応用できない人」を活用できた。産業社会の時代、特に機械化が進む前の工場などではこのような単純作業を人力で行っていたので、それなりに活躍の場があった。このような人材起用が「ものづくり日本」などと呼ばれる中でもてはやされたため、一層「考える力」は軽視され「覚えること」だけが教育となった。

しかしそれも20世紀の話。21世紀に入り情報社会になるとニーズが複雑化・多様化し、単純作業の繰り返しが求められる場は激減した。それとともに定型作業の機械化が進む。まずは生産ラインが機械で自動化され、次いで事務処理のような情報処理もコンピュータによって置き換えられた。これとともに人間の行うべきこととしては、毎回相手のニーズに合わせた違うパターンの作業が求められるようになった。

このような時代になると、言われた通りにしかできない人は極めて使い勝手が悪くなる。毎回毎回モノを考えられる人が、状況に合わせて異なった指示を出さなくては作業にならないからだ。これならば、手順を考えられる人が自分でやってしまった方が、「教える」というワンステップを省略できる分効率的である。こういう状況では、「教えて、やらせる」意味がなくなってしまう。とはいえ、考えられる人の数は少ないのだ。

これがある意味、情報社会のジレンマとなっている。しかし情報化は自らその解決策も提供してくれる。考えてみればAIはこういう人達に働く場を与えてくれる救世主となるである。AIはその場その場でどうすればいいかを考えて、的確に指示することができる。考えることができない応用力のない人でも、AIに言われた通りに作業をやれば、その状況でのベストの対応ができることになる。

さらにこれには可能性が広がっている。それはAIのソフトの部分が進歩しても、マンマシンインタフェースのハード的な部分にはまだボトルネックがあるからだ。あと半世紀もすればヒューマノイド的なロボット技術の進歩が解決するであろうが、それまでの21世紀前半においては、AI技術はソフト先行であることは間違いない。従って機械では処理できないソリューションもAIはアウトプットしてしまうことになる。

となれば当面の間は、AIが提供するソリューションをフルに実現するには、システムが指示する通り動いてその「手足」となる「人間」がいなくてはいけないことになる。AIの進歩が、実は「指示通りにしか動けない人」の雇用を生み出すのだ。当面、AIを人間社会で活用する場面は、このようなハイブリッドなシステムが多くなるだろう。すなわちこういう人達は社会的に淘汰されてしまうのではなく、働き口はAI化した情報社会だからこそ当面確保できることになる。

すでにアマゾンの倉庫やウーバーイーツなど、実質的にそういうカタチでの機械と人間の連携が実現している。現状でもこのようなバリューチェーンが機能している以上、人とコンピュータを組み合わせたシステムには何ら問題はない。強いて言うのなら、付加価値の再配分をどうするかという結論が出ていないだけである。AIは給料を上げなくても電源があれば動いてくれるので、人間系の部分にどれだけやる気を起こさせるような分配を行うのか。これさえ解決できれば当面は「三方一両得」のwin-winにできるのだ。


(24/01/05)

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