知識は「0円」





AIの登場によって起こる最大の経済的な影響は、「知識に対し高いコストを払う」意味がなくなる点だろう。新たな付加価値を生み出す「知恵」に対して高いコストを支払うことに関しては、今後とも変わらないことは間違いない。あるいは情報社会においてはさらに「知恵」を多角的にマネタイズすることが可能になるため、その価値は一層高まるとさえ言えるだろう。

ところが産業社会だった20世紀までは、過去のファクトの記録である「知識」に関しても、そのハンドリングが機械では困難だった一方、生産力の膨大な強化とともに、必要とされる情報が飛躍的に増加したため、「知識」の処理を膨大な数の人海戦術で行なわざるを得なかった。こういう構造的な問題があるからこそ、そこに膨大なコストが投下され、そこに関わる人材は「知的エリート」として厚遇されることになった。

確かに人海戦術で膨大な情報を処理するためには、必ずしも誰でもできるわけではない技能である「知識」の扱いに長けた人材を一定数確保する必要がある。これが産業社会において、企業や組織が「知的エリート」を必要とした理由である。しかし、いまやこのような「知識」の処理に関してはAIで対応可能だし、インターネット上の全ての情報を「知識」として扱えるAIの方が人間より圧倒的に博識で有利である。

パフォーマンスで勝てないだけではない。AIはコストという面でも人間系より圧倒的に有利である。AIにはシステム構築の初期投資こそ必要だが、実際に運用をはじめたら電気代に象徴されるランニングコストがかかるだけである。パフォーマンスの限界までは、使えば使うほど一つの処理あたりのコストは安くなる勘定だ。そこまできても、またシステム投資をして処理能力を高めれば同様にコストは下がり続ける。

その一方で、人間系での情報の処理は、処理する情報の量に比例して人海戦術の頭数が必要となる。処理量が増えれば増えるほど、それと軌を一にしてコストも増大してくる。知識の処理に関する経済効果は、AIと人間系では正反対なのだ。今までの産業社会では必要悪的なコスト面でのボトルネックだった「知識の利用に必要なコスト」は、AIを取り入れることで極めて低くなり、ほとんど問題にならないものとなる。

こうなってくると、企業や組織の賃金体系も大きく変わる必要がある。20世紀の産業社会のように「秀才エリート」が、ブルーカラーより高い賃金を得る理由は全くなくなる。肚をくくって自己責任で決断を行うトップなら、そのリスクに見合った高いリターンを貰ってもおかしくはない。しかし単に過去の知識が豊富で、その組み合わせでしか答を出せない人間にはAI並みのコストしか出すことができない。

そういう輩に高い給与を払っていたのは、情報処理が機械で行えなかった20世紀の産業社会の時代の遺物である。AIの登場により、「知識」を扱う仕事とはまさに「張子の虎」であったことが明らかになった。そうである以上、情報社会への移行において一番考える必要があるのは、この「秀才エリート」への配分が無意味に高い人件費の分配比率の見直しである。

昨今人手不足が顕著になっている。もともと労働生産性が悪く、競争力の関係から賃金を上げられないという悪循環が日本の企業には付きまとっていた。これは古くから言われていることだが、労働生産性の悪さは、グローバルに見ると特にホワイトカラーにおいて顕著である。工場など現場の生産性は、日本は世界的にみてもかなり効率がいい。それをホワイトカラーの生産性の悪さで帳消しにしているのが、日本の企業なのだ。

さらに学歴・年功制の賃金体系なので、アメリカに比べれば職務による賃金差が少ないとは言っても、同じ勤務年数で比べるとブルーカラーよりもホワイトカラーの方が給与水準が高くなっていることは否定できない。働かない・給与が高いという「二重苦」のホワイトカラーを一気にAI化して、その作業を低コストで処理できるようになるのだから、企業全体の生産性は著しく高まるはずである。

そうすれば、全体の収益構造はそのままであっても、「AIに使われる労働者」への配分を今よりも多くすることが可能になる。個人の費用対効果、すなわち仕事のハードさに対して充分納得できる賃金が払われるのなら、その仕事を希望する求職者も増えるはずである。辛い仕事にはたっぷり支払う。これが実現すれば求人と求職のアンマッチングも解消する。そしてその原資を生み出すものこそAIなのだ。


(24/01/19)

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