左翼の最期





コロナ騒動以来「リベラル・左翼・野党・ジャーナリスト」周辺の金属疲労が誰の目にも明確になってきたが、コロナ明け以降はその劣化の度合いが一段と進み腐臭さえ漂うようになった。彼等にとって大事なのは「お仲間」だけで、世の中一般のボリュームゾーンは眼に入っていないのは元々だが、その「断層」が一層深く深刻なものとなってきたからだ。はっきり言って、すでに世の中全体から浮いた、地に足が着かない存在となっている

それは一つには、社会構造が産業社会から情報社会に移行しキャズムの時代になったにもかかわらず、左翼の基本的スタンスが「蒙昧な大衆を啓蒙する」という、旧来の「上から下へ」のイノベーター理論的なものにとどまっているからだ。そういう意味では必ずしも左翼的な論調でなくとも新聞などのレガシーメディアが、その「上から目線」の論調ゆえ「マスゴミ」として拒否されるのと軌を一にしている。

これは社会の変化が、旧来の左翼・リベラル的なものをはじき出した現象と見ることができる。今の社会での情報や流行の伝播の特徴は、同じレベルの仲間同士で広がってゆく「横から目線」にある。その分、特に若い人ほど、論点や目線が上から来るだけで「マウントを取りに来た」と感じて、コミュニケーションを拒絶して走り去ってしまう。向こうから柄の悪い野郎がやってきたら、関わり合いたくないとばかりに逃げるのと同じだ。

そもそもこういう構造的問題があるのだから、主義主張としては左翼・リベラル的なものに共感する可能性がある人も、端から話を聞いてさえくれないということになる。ところが左翼・リベラルな方々は、極端な一神教で「自分だけが正しい」と信じきっているので、相手に合わせてコミュニケーションする術を持たない。そもそも現代の政治活動としてはこの時点で落第である。

ここで不幸なのは、こういう「上から目線」で「啓蒙」されるのが好きな、寄らば大樹の陰的に強い権力に縋ろうとする指向を持つ人達が、未だに少ないながらいる点である。多くは旧来からの支持者の老人であるが、支持者がいるにはいるので、政党としては票が欲しい以上どうしてもその人達にオプティマイズした行動を取ることになる。そして活動家はその狭い「世間」で支持され喝采されることで、あたかも自分達が正義でありこれが正しい道なのだと信じてしまう。

実は今でも彼等を支持しているような人は狂信的な「信者」であり、社会の中では相当にエキセントリックな存在である。日本共産党がバカの一つ覚え(比喩でなく本当にそうかもしれない)のように唱える「大企業から金を巻き上げる」というお題目があるが、大企業やそのグループ企業に勤めていたり、取引先だったりする人からすれば、大企業が儲かってくれないと生活が成り立たない。そして日本の産業構造ではそっちが人口の過半数なのだ。

ちょっと考えればすぐわかる、これくらいの社会構造の問題も理解できないような「狂信的信者」ウケのいい政策を打ち出し主張すれば、真っ当な生活者はますますドン引きにならざるを得ない。そして「狂信的信者」は「自然減」もありジリ貧である。となると、ますます残った支持者に向かって過激なスタンドプレイに走る。これでは自ら墓穴を掘りまくることになるが、これが野党得意の「ブーメラン」の正体だ。

そう思うと、この末路はデジャブである。かつて68~69年の若者革命(Youthquake)真っ盛りの頃、学生運動として大学全共闘でバリ封とかやっていた新左翼は、これで何かが変わるんじゃないかとそれなりに「ノンポリ学生」からも心情的には支持されていた。それがジリ貧になりだすとどんどん過激化し、内ゲバを繰り返すと共に爆弾テロとかも行うまでになる。こうなると、もはや社会の癌でしかなくなってしまった。

そして最後は「連合赤軍」である。社会から隔絶した「閉じた系」になってしまったことで、己の破壊的暴力の向かう先が自分達自身しかなくなり、ついには自爆してしまったのだ。あれこそ極端に走ったカルトの末路そのものだ。カルトは出口のないチキンレース。自らを自分を滅ぼす以外にエンドマークは出ない。そして1989年の鉄のカーテンの崩壊のように、左翼の最期はいつもこのカタストロフにある。山本太郎よ、お前の「あさま山荘」はもう目の前だ。


(24/01/26)

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