仕事の掟





いにしえのような貧しい時代においては、事業においては資金を調達することが一番難しかったので、大きい組織の信用力がモノを言って、大きな事業を立ち上げるには大きな組織を持つ企業でなくては難しかった。その時代においては大企業のスケールメリットは、充分な経済効果があったし、明らかな優位性も持っていた。それは産業革命で事業規模が大きくなると共に、株式会社制度が広まったことからも理解できる。

さらに20世紀半ばまでは、事務処理や組織管理業務といった本社機能は人海戦術でこなす以外に方法はなく、組織や事業規模が拡大するに比例して事務作業を行うホワイトカラーの数も必然的に増大した。当然管理のための組織も必要となってくるため、肥大化は一層進む。いわゆる組織管理論が生まれて、科学的・合理的に組織を管理するようになったのが20世紀の初頭なので、我々が目にする大企業が生まれたのもこの頃と考えられる。

大組織が生まれ、それが社会の主流となってくることで、そこにオプティマイズした「組織人」が生まれてくる。20世紀の大組織にとっては、このような「組織人」は極めて使い勝手がいいので重用されることになるし、学校教育もこのような「使い勝手のいい組織人」を育て上げるシステムへと段々特化していった。この結果、20世紀の半ばには「働くこと=組織に属すること」とまで考えられるほど常識化した。

しかし、最適化を進めすぎると、変化への対応が難しくなる。この「産業社会に最適化した大企業」は、21世紀に入って情報社会が到来すると、その矛盾が顕になってきた。組織に所属している人は、肚をくくって自分の命懸けで何かをヤリとげるということはしない。言われたことを言われたようにやるからこそ組織人なのだ。大企業がうまれて一世紀。大企業の中は組織人ばかりになってしまった。

個人では身動きがとれず、社名や肩書きを背負ってはじめていっぱしの顔ができるというのが組織人のステレオタイプだ。かつてのサラリーマンはその典型だし、今でも役人にはそういうタイプが多い。自分でモノを考えたり責任を取ったりしなくても、ピラミッド型の組織の中に入り、上から降ってくる命令をソツなくこなせば、それなりに評価されそれなりの待遇が得られる。

こういう環境こそ、「甘え・無責任」でモノを考える力のない人間にとっては理想郷である。そして産業社会における企業などの大組織は、その最たるものである。それでも民間企業では売上や利益といった事後の評価指標があるので、高い評価を受けるためにはエビデンスのある実績を残す必要があった。事後評価がなく「やった事実」だけで済まされる官僚組織は、その点さらに悪質だった。

情報社会になると、命令できることは人がやらずとも機械が完璧にこなしてくれる。まさに命令を命令通り粛々と、しかし極めて高速にこなすことこそ、コンピュータの独壇場ではないか。ここで、サラリーマン的な組織人は御役御免になる。すなわちAIは秀才エリートの代替品なのだ。となると理解しやすいが、秀才エリートにモノを考えさせたために、日本の大メーカーが世界経済の変化についていけず没落したように、AIにも前例のないモノを生み出す力はない。

その一方で社会の混迷は深まり、舵取りの役割はますます重要になる。先の見えない状況の中で、肚をくくって自分の命懸けで判断しヤリとげるのがリーダーシップだ。そしてこれこそが人間が果すべき最大の役割である。つまり組織人とリーダーは、全く違う人種なのだ。ここに大組織の最大の矛盾がある。図体だけはデカいが、決められたようにしか動けない大企業は、もはやその存在意義を失った。

これからの情報社会では、自分の責任で機械に指示を出す役割と機械に指示された通りラスト・ワン・マイルの作業をこなす役割だけが人間が担当すべき分野で、間の部分はもはや組織でこなして人間が関与する必要はなくなる。我々の思っている付加価値感は、あくまでも20世紀の産業社会のそれだ。直接人が作業してくれるのはうれしい。情報社会においては、「人間が担当すべき分野こそ付加価値になる」という意識変革が今求められている。


(24/02/02)

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