依存する人々





「甘え・無責任」な人は、同時に自分の足で一人で立つことができない点も特徴である。自分一人で立っていられない以上、社会的な存在でいるためには外側に支えが必要になる。かつては大家族や地域の共同体がそういう人達の「居場所」となっていた。なんだか知らないがそこにいて、それなりに食い物には困らないし、周りもそういうものだと思って見ていてくれる。これはこれで近代社会とは相容れない面もあるが、社会的なあり方として間違っているわけではない。

今でも地域や民族によっては、こういう共同体的な社会構造が強く残っている。擬似共同体という意味では、宗教や共産主義も同様に自立できない人を受け入れて居場所を作る機能を持っている。実際宗教の熱心な信者や左翼の活動家になる人には、こういうタイプが多い。心の支えが教義や政治理念だけになってしまっているので、極端な原理主義に走りがちなのもそのせいだ。

こと日本においては、高度成長期に怒涛のような人口移動が起こり、それまでの農村部の大家族共同体を基本とした家族構成が、個を基本とする核家族へと急激に変化した。このためその中心である戦中生まれから団塊世代にかけての集団就職組は、個人としてのアイデンティティーを確立することなく、共同体的なリテラシーしかないまま核家族を構成することになる。そして、そのメンタリティーはその子供たる世代にも受け継がれていった。

考えてみれば、創価学会のような新興宗教も、左翼革新政党も、高度成長期に主としてこのような世代の上京してきた地方出身者を取り込んでその基盤としていった。まさに、彼等にとっての「心の支え」だったことがよくわかる。そして、その後経済が発展し安定成長となったのちには時代から乖離したため、未だに主たる支持者はその世代だけ。ベビーブームだったので数こそ多いものの、ジリ貧状態にあることは否めない。

個人的にその主張が支持できるかどうかはさておき、ひとまず社会的には宗教法人だったり政党だったりしてその存在を認められている以上、社会的に「弱者」を下支えしているという役割があることは認めよう。そしてそういう「縋れる強い権力」にぶる下ることができた人はひとまずそれで落ち着くのだろうが、それができない人たちは、どうやって社会の中で自分の居場所を担保するのであろうか。

自分一人で立っていられない以上、自分の外側の何かに縋っていることは間違いない。そして、それは特定の人だったり、特定の物や行為だったりする。それらに対して縋ろうとすることで、自分が生きている証を見出そうとするのだ。特定の人に縋る行為はわかりやすい。DVされても相手から離れられないなどというのは、このような心理が働いているためだ。男性の場合には、配偶者に対して母親に対するように極度に依存している事例もよくみられる。

縋る相手は、必ずしも実際に身近にいる人間でなくてもいい。「推し」にハマるのも、推しを自分が支えていると思うことで、結果自分の居場所を求めて縋っている行為である。財産を注ぎ込み全国ツアーを全部回流ようなファンもしばしば見られるが、これなど宗教にハマって多額のお布施をして壺を買うのと変わらない心理構造である。ホストに入れ込んでパパ活に励む女性が問題になっているが、これを突き動かしているのも同じ原理だ。

ここまで見ていくと容易に理解できるのだが、縋る対象が人や組織だから色々勘違いが起こるのであり、対象がモノや現象ならば、これは立派な依存症である。ホストに入れ上げるのも、疑似恋愛というよりは依存症である。つまり依存症というのは、何かに縋らないと自分のアイデンティーを持てない「甘え・無責任」な人達特有の行動面での現象なのである。自分が自分である証を「依存」してしまうことから起こるのだ。

そもそも「甘え・無責任」な精神構造を持っている人は、薬物依存症やギャンブル依存症になりやすい。一方「自立・自己責任」な人は、罷り間違って興味本位で手を出してしまったとしても、容易に抜け出すことができる。このような精神構造の違いは容易に理解できるが、そのルーツは共同体型のアイデンティティーを今に至るまで温存してしまっているところにある。これはミームの問題なので一朝一夕に解決する物ではない。しかしその構造を理解し、念頭に置いてこれからの社会のあり方を考える必要がある。


(24/02/09)

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