生きるということ





生きることの意味を考えることほど、その人の背負っている業が滲み出るモノもないだろう。一方であくまでも自分は自分であり、その自分が色々な経験や社会との関わり合いをしてゆくのが人生と理解している人がいる。その他方で社会から切り離された状態では自分というものを自覚することができず、学歴や肩書など他人や組織から与えられた「プレゼンス」がないと自分自身でさえ自分を自覚できない人がいる。

本来社会があろうがなかろうが世界にただ一人になろうが、どんな状況になっても間違いなく自分が自分でいられて初めて、自分という存在が確立する。周囲の環境や時系列的な変化に引っ張られて自己認識がコロコロ変わってしまうようでは、自分のアイデンティティーがあるとは言えないのだ。言い換えれば、どんな場合でも、自分の足で立って、自分の力で生きていけることに他ならない。

もちろん体力とか身体能力とか、ハンディーキャップのある人もいるので、あくまでもこれは物理的に生きていける体力ということではなく、精神的に生きていけるかどうかという問題である。このためには、並々ならぬエネルギーと意思の力が必要になる。これがあるどうかが、自分を持っているかどうかの境目となる。そしてこれを維持するためには、普段の努力が求められる。

その努力こそ、生きている証だ。これができていない人間は、生きているとは言えない。一人前の顔をして動き回っているものの、生きている人間ではない。まさにゾンビである。しかし、現代の日本社会にはこの「ゾンビ」が沢山蠢いている。もしかすると、人間より「ゾンビ」の方が多いかもしれない。それでも済んできたのが20世紀の産業社会であり、高度成長期だったがゆえの負の遺産である。

生きているということは、熱力学的なエネルギーの系として考えれば、開放系における平衡が成り立っているということになる。植物は光合成で太陽光のエネルギーを吸収できるのでちょっとややこしいが、動物においては外部から栄養分(これがネゲントロピーだ)を摂取することで、エントロピーが増大すること(=死)を防いでいる。「ゾンビ」も活動できることを考えると、この部分は共通している可能性がある。

しかし生きていることは同時に、人間を情報系という面から考えても、開放系における平衡が成り立っているところに特徴がある。すなわち、ひたすらケイオスに向かうのではなく、秩序を作りだすことで平衡を実現している。この情報のネゲントロピーを生み出す力こそ「創造力」なのだ。そしてこの力もまた、精神的に生きていための並々ならぬエネルギーと意思の力の賜物である。

圧倒的なスピードで消費されてゆく情報は、同時にガベージ情報の巨大な連山を構築している。世界の知の総和が大英図書館に収まってしまった18世紀の社会なら、知識を知識のままで制覇することが可能だったろう。だが、情報社会においては蓄積された情報を処理する速度を大きく超えた速さで、新たな情報が蓄積されてしまう。旧来の知識マネジメントの方法を踏襲したのでは、いくらコンピュータの処理速度が速まっても手に負えない。

AIとて、全ての情報に当たって最適解を得ることは難しくなる。だからこそ、人間ならではの0を1にする「創造力」、すなわち何もないところから価値ある情報を生み出せる力が重要になるのだ。まさに情報社会における「生きるということの意味」は、この創造力の発揮である。ではゾンビになっちゃった人はどうしたらいいのか。それは何度も語っているように、「コンピュータに指示される人間」になればいい。それは必要なのだから。あとはこれまたいつも言っているように「待遇の問題」だけだ。


(24/02/16)

(c)2024 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる