世渡りの才能





俗に「あの人は世渡りが上手い」などと言われるが、では一体「世渡りの上手い人」とはどういう人か。それは「世渡り」というぐらいで、世の中すなわち社会一般を相手としている行動様式であるため、その中身はどういう「ご時世」かによって変わってくる。それは歴史的な変化もあるし、会社や組織、あるいは国家・民族などのように、その時の周囲との関係により起こる変化もある。

戦国時代のような「乱世」には、勝ち残る実力さえあれば肩書きや家柄がなくても、ひとかどの業績を残すことができる。こういう状況下では、実力で世の中を渡り歩く人だけが評価されるし、世渡りの上手さも敵をバッタバッタと快刀乱麻に打ち倒す力となってくる。逃げまくっていたのでは全く出世できないどころか、自分の命さえ危うくなってしまうのが関の山だ。

一方、高度成長期のような「平時」には、予算獲得が上手かったり、ゴマスリがうまかったり、いわゆる組織内でうまく立ち回れる官僚タイプの人が重用される。安定的な環境の中では、既得権益を守りつつ他者の権益をつまみ食いできることが組織拡大のカギになるからだ。逆に不必要な喧嘩を吹っかけるようなタイプだと、結果として既得権益を失うことにもなりかねないから敬遠されることになる。

古今東西の歴史を見ると、それなりの実績を上げている人はこのどちらかのタイプだったりする。現実にも出世している人材は、このどちらかである。ベンチャーやスタートアップでは前者のような「乱世型」の人材が活躍しているし、伝統ある大組織では後者のような「官僚型」の人材が抜擢されている。それは、それらの組織の置かれている状況が異なるからである。

これは持って生まれた才能であって努力や勉強でどうにかなるモノではない。当然、どちらも持ち合わせていない「凡才」も掃いて捨てるほどいる。というより、そっちがほとんどである。すくなくとも、どちらのタイプにしろ、大多数の「凡才」にはない才能をもっているからこそ、評価されるし世渡りができるのだ。そういう意味では、「その他大勢」とは一味違う能力がなくては、ウマく世渡りはできないといえる。

もちろん「乱世型」も「官僚型」両方できる人も稀には存在する。テイク・オフ期の新興国の軍人にはしばしば見られる。「坂の上の雲」ではないが、明治の日本でもそういう人材が活躍したからこそ列強の植民地化を免れることができた。しかしこの両能力は、基本的には両立しにくい対立的な要素であり、両方できる人間は世渡りが上手い人間のなかでも1%もいないだろう。

いずれにしろ、これらの人材は組織運営の上では貴重な存在である。これを活かすことが組織運営の要である。野中郁次郎先生の名著「失敗の本質」ではないが、旧帝国陸海軍が、リソースとしてはそこそこのモノを持っていながら、それを活かせず自ら墓穴を掘ってしまう戦略をとってしまったのは、平時向けの官僚的人材がそのまま戦時の組織運営を行ってしまったからだ。

まさにHRマネジメントの極意は、その人材がこのどちらのタイプなのかを見抜き、適材適所に配することで全体最適を実現することである。ただ、才能を見抜くにはその人材以上の才能が求められる。そうでないと、その能力の客観的・定量的判断ができないからだ。すなわち才能を見抜き判断する力を持っている人材を、人材配分の責任者に抜擢することが必須である。今までの年功型の日本式経営ではこの点が決定的に欠けているのだ。


(24/02/23)

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