自分の身は自分で守る





自分の身は自分で守る、これは人間のという以前に自然界の大原則だ。昨今は市街地にもクマが出没してニュースとなっているが、自由に動き回れる動物である以上、どこに現れてもおかしくない。人間は自然界には存在しない大量殺傷手段を持っているので、通常は野生動物の方が人間を恐れており、リスクを避けて人間の生息域に近付かなかったというだけのことである。

それが、気候の変化でエサが減り、危険を冒しても人間の生息域に近付かざるを得なくなったこと、それとともに人間の生息域には美味しいエサがたくさんあることがわかったので、ハイリスク・ハイリターンの勝負を掛けるようになったのだ。熊も自分の身を自分で守って人間に近付かなかったものが、生きてゆくためにはリスクを冒さなくてはならなくなって街に出没するようになったわけである。

自分の身を守る必要があるのは、異なる動物間だけではない。パンデミックのような病気もあるし、台風や地震のような天変地異もある。流石にこのような「人手に負えない」現象については、少なくとも人間も自分の身は自分で守っているといっていいだろう。うがい手洗いもそうだし、毒のありそうなキノコは食べないというのもそうだ。少なくとも、この点においては原始人の野生時代から受け継がれていることは間違いない。

しかし、こと同類である人間同士となると、この原則を忘れてしまう人が結構多い。野生動物は、たとえばチンパンジーなどが典型的だが、集団で行動することもあるものの、一旦コトが起きると仲間同士で激しく闘い合う。もっとも人間も国家間の戦争や集団間の派閥争いなど、仲間同士の争いを頻繁に起こしているのだが、個人レベルになるとけっこうこの事実を忘れてしまうことが多い。

特に日本人は島国根性と江戸時代以来平和な社会が続いたこともあって、自分の身は自分で守らなくてはいけないという原則を忘れてしまった人も多い。基本的に社会に出れば自分の周りは敵しかいない。戦国大名の例を引くまでもなく、親兄弟だって、いつ足を引っ張っていがみ合うようになるかわからない。最後の時に信じられるものは、結局は自分しかいないし、その場合自分の身は自分で守るしかない。

他人が自分に良くしてくれると思うのは、単なる甘えである。あるいは他人が自分に良くしてくれるといいなという願望と現実の境目がわからなくなっているだけである。もちろんある時点においては上手く関係が進んでいるということも多い。しかしそれは、その時点ではその方が互いに都合がいいからそうしているし、その結果としてそうなっているだけなのでである。

状況が変われば、いつ裏切られるかわからない。そのためのリスクヘッジを掛けてないと、いざという時にとんでもない目にあう。100%心を許してしまうのではなく、心の片隅に「もしも」の非常時に備えたBCPを常時持ち続けていることが重要なのだ。ウマく行っている間は、それに乗っていれば問題ない。それに溺れてしまって、そのいい状況が失われてしまう時を考えておくことが大事なのだ。

その時のために最も重要なのは、防衛力としての攻撃力を持っていることである。そのための「武器」は腕力でも知力でもいい。「敵」に勝ちさえすればいいのだから、方法は色々あるだろう。極論すれば、騙し討ちでも勝てばいいのだ。もしも裏切ったら「恐いぞ・ヤバいぞ」という強い印象を相手に与えていれば、強い抑止力となる。平和を維持するには強い軍事力が必要なのと同じである。

特に情報社会の21世紀では、頭数が重視された産業社会とは異なり、強いモノが強いモノとしてきちんと評価される社会である。圧倒的なパフォーマンスを持っている人はさておき、「蜘蛛の糸」ではないが、ボリュームゾーンである水平線以下とのボーダーラインでは、熾烈な生き残り競争が引き起こされることになる。いずれにしろ、自分の身を自分で守れた人だけが生き残れる。あとは死ぬか「コンピュータに使われる人間」になるべきだ。


(24/03/01)

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