アホがなる「記者」





コロナ禍以降、それまでの化けの皮が剥げて権威が地に落ちた人達は多い。有識者と呼ばれる人達をはじめとして、野党・左翼・リベラルの人達、霞が関の官僚、マスコミ・ジャーナリズム等々。それまで一定の社会的評価が与えられていたが、それが全く内容のない絵に描いた餅だったことが、誰の目にもあからさまになってしまった。それは、自分の目や耳で直接体験し、それを元に価値判断する人が多くなったことによる。

左翼・リベラルや官僚は、やっていることは昔と同じだが、それが世の中から支持されなくなってきたということなので、それを評価するかどうかはさておき、ある意味一貫性はあるということもできる。しかし、マスコミ・ジャーナリズムは明らかに劣化が進んでおり、世の中から支持されなくなった以上に、自らその評価を下げるような墓穴を掘っているのだから、なんというていたらく。

それはマスコミ・ジャーナリズムという社会的機能の変化に加えて、ジャーナリズムを支えるマスコミ記者の質的低下が激しくなっているからである。21世紀の情報社会では、本当にジャーナリスティックな視点を持っている人材は、個人で発信できてしまうし、それが広く支持者を得て評価されてしまう。個別の情報という意味では、マスコミの情報も、在野のジャーナリストの情報も等価なのだ。

その時代でも「マスコミの記者」という肩書に捉われコダわるのは、ジャーナリストぶりたいもののその実力はないため、せめて名刺で取材して、紙面に載ったりニュースでオンエアされることを期待しているためである。組織の威を借りてジャーナリストぶりたいからこそ、新聞社や放送局に入りたがったのだ。この傾向は90年代から始まっており、今や現役のマスコミ・ジャーナリストは皆このタイプになってしまった。

勉強だけはできる馬鹿、それを秀才エリートという。勉強して知識を蓄え、それを組み合わせて試験でいい点数を取るのは誰よりも長けている。その一方で自分でモノを考えられないし、自分で真理を発見できない。ということは、自分では今までにないソリューションを創り出すことができない。その分、自分のプレゼンスを保証する肩書を欲しがる。官僚がそうであったように。

実は、新聞や全国ネットのマスコミ・ジャーナリズムの記者もその典型なのだ。それは記者達の学歴を調べてみればすぐにわかる。というより、これは今に始まったことではない。昭和、それも戦前から新聞記者には東大法学部や早稲田政経学部出身者が多かったことからも分かるように、そもそも官僚崩れ政治家崩れがなりたがる仕事であった。源流をたどれば、明治期の自由民権運動の活動家から政党政治家が生まれ、活動機関紙か主要新聞が生まれてきたところまでさかのぼることができる。

当然、マスコミ・ジャーナリストには秀才エリートが多くなる。彼等は知識の演繹上に現実を捉えてしまうので、理屈からしかモノを見られない。それでも済むぐらい世の中の変化が少なく予定調和で推移した産業社会の高度成長期ならいざ知らず、情報社会に移行した21世紀の現代社会の構図は、そういう視点では捉えることができない。その上理解できないミッシングリンクを陰謀論のような推論で埋めてしまうから、トンデモ記事が生まれるのだ。

また、秀才エリートということで妙な優越感を持っているために、特に新聞では上から目線で啓蒙してやろうという勘違いな論調を振りかざしがちになる。知識をベースにインタビューやニュースリリースをコンパクトにまとめるならAIの方が余程手際いい。それだけでなく、妙な主観やイデオロギー・美学など個人の思い入れが混入してくることもAIなら防止できる。実際、アメリカなどではAI記者が実用化されている。

すでに社会的使命を失った人達が、既得権のイスにしがみついている光景は、古今東西の歴史の中、パラダイムシフトの最中にはよく見られる現象である。今目の前で起こっていることも、20世紀型産業社会から21世紀型情報社会への以降の中で起こっている変化の一つである。全体の流れに竿を刺すことができない以上、個別の変化に抵抗しても意味はない。老兵は消え去るのみ。そして、アホも消え去るのみ。


(24/03/08)

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