ルールは破るためにある





日本ではベンチャー企業が生まれにくいという「神話」がまかり通っている。確かにGAFAMのように「天下」を取ってグローバルなゲームチェンジャーとなるような企業が生まれていないのは確かだが、それは欧州もそうで別に日本に限ったことではない。逆に小粒でも自分独自の世界を持ち、グローバルに評価されている日本企業はけっこうある。しかし、それが経済や市場構造の構造を一変させる存在にはなりにくいということである。

このポイントは、遵法精神では起業はできないというところにある。社会に従うのではなく、自分の思うところをルールにするからこそ、他人のやっていない新しいことができる。ある意味、ベンチャービジネスのファウンダーにはサイコパス的な性格の人が多いといわれる。そもそも回りからどう思われようと自分の道を突き進める人でないと起業できないのだから、それはある意味当たっている。

世間に、法律に、既存のエスタブリッシュメントに、叛旗を投げつけるのがベンチャースピリットなのだ。シリコンバレーの成り立ちが、ヴェトナム戦争の泥沼に嵌っていた米国で発生した反体制的なサブカルであるヒッピームーブメントに求められることはよく知られた事実である。1970年代末のマイコン革命の空気を知っている人なら、パソコン自体が極めてサブカル的な文化だったことを覚えているだろう。

新しいモノを生み出すということは、すなわち既存の価値感の否定である。今までの社会から演繹的・論理的に生み出すことができるモノではなく、誰も見たことも聞いたこともなかった新しい何かが世の中に登場する。これができてこそ、今までにない新しい価値観や幸せを人々に提供できるし、それが人々の琴線に共鳴するからこそスタートアップできる。それは、現状の中にどっぷり漬かっている人には成せないワザである。

パラダイムシフトを生み出す原動力はここにある。既存の価値観から演繹的に生み出せないものを、世の中に提供する。この強い意志は、ルールを守る精神からは出てこない。社会のルールより、自分のルール。誰かが決めたことより、自分が決めたこと。これを貫けてこそ、ベンチャービジネスをスタートアップできる。資金はいかようにも調達できるが、この企業家精神は生まれつきのもので無い人にはどうしようもない。

ここまで語ればわかる人にはわかると思うが、日本社会の問題は、やはり日本型の組織が秀才エリート中心に構成されていることに尽きる。秀才エリートは、自分の道を唯我独尊に突っ走るベンチャー起業家とは対極的な存在である。これが明治以来の既得権益で固められた官僚機構や企業組織を死守すべく要塞化しているために、ベンチャーはニッチなところには生まれてくるが、エスタブリッシュメントを撃破できないでいる。

官庁や大企業のような組織がパラダイムシフトに弱いのは、秀才エリートというものが既存のルールから入ってく発想をベースとして行動するからだ。彼等の基本は知識の勉強にある。そして現状において学べる知識とは、ことごとく現状の人間社会を構成している原理を超えることはない。このロジックでは改良はできても、全てを一新する改革を行うことは不可能だ。

秀才エリートは、文系なら法律など社会のルール、理系なら科学の論理体系を勉強し覚えることから行動原理を構築する。すでにできあがっている現状を公理とし、その上に理論を展開してゆくのが彼等の基本動作だ。だからこそ彼らには「今までにない新しいこと」は生み出せない。それだけでなく、ゲームチェンジされては折角の既得権が失われてしまうこともよく理解している。

常識や定説に囚われず、見たままを見、感じたままを感じられなくては、今までにない新たな真理を見つけられない。彼等は自分達にそれができないことを重々理解しているからこそ、守旧派的に既得権を死守するのだ。今求められているのは、世の中のルールや暗黙の了解など無視して、自分のやりたいように自由に行動できる人間である。日本人にもそういう人材は決して少なくない。

比率で言えば欧州などともさほど変わらないであろう。しかし、そういう人材がエスタブリッシュの中に入ることができず、アウトサイダーになってしまうのが、日本社会の問題なのである。それなら、既存の既得権構造の外側により成長性も可能性も高いもう一つの社会構造を作ってしまえばいいではないか。既存の規制や許認可の枠外にある。いわばソフト的特区である。もともとアウトローの世界はそういうものだったではないか。アンダーグラウンドでどんどんやろうではないか。


(24/03/15)

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