分水嶺を越える





物事に於いては、それまでの上り坂が下り坂に変わるピーク、すなわち「分水嶺」を見極めることが非常に重要である。富士山のような単独峰ならいざしらず、何度も何度もアップダウンが続いている尾根筋を必死になって進んでいる人にとっては、果たして分水嶺を越えたのかどうかを意識しにくいことが多い。しかし、自分のポジションを把握するためには、これは非常に重要なことである。

また実際の地形でも、人為的な情報により「天下分け目」の位置が曖昧になってしまうことも多い。関東平野の西の端は大菩薩嶺から笹子峠、三つ峠を結ぶラインである。川はここから東へ流れ、相模川や多摩川となって関東平野で海に注ぐ以上、地形的には関東平野の端で間違いない。しかし、これらの地域は山梨県に属し、一般に関東と思われている東京都や神奈川県ではない。このため勘違いしがちである。

個人の人生や社会活動においても、「分水嶺」を認識することは極めて重要だが、地形と同様に、その位置は常識や実感から感じられるものとは違うことが多い。これがしばしば多くの間違いや問題をもたらしている。常に自分や自分の属する集団を客観視できる人であれば問題ないが、それができる人はそもそも少数である。多くの人は、自分の目の前にあるものだけを見て、それが全てだと思ってしまう。

必死に登りを上がって、峠を越えて一息つき、下りモードに切り替えることが、戦略的には重要だ。だが、実感と実際は違う。客観視できず自分の目先のことしか理解できない人は、いつ分水嶺を越えたのかがわからない。分水嶺を越えてかなり経って、どう見ても状況が変化してきているのがはっきりわかるようになって、いつの間にか越えていたことに気付くことがほとんどである。

まあ、ハイキングならば下りの方が楽かもしれないので問題はないだろうが、社会生活においてはこういう人は状況や環境の変化を見通せず、波に飲み込まれてしまいやすい。いわゆる「茹で蛙」というヤツである。自分がどういう状態にあるのか客観的にわかっていないので、次に起こり得る出来事を予測することができないし、それに備えておくこともできない。手遅れなほど変化が起こって初めて気付くことになる。

古今東西の歴史を紐解けばわかることだが、戦争では均衡が崩れてからの被害が大きい。明らかに分水嶺を越えて、旗色が「勝ち組」「負け組」にはっきりわかってから、劣勢の方が決死の反撃に出ることが多いからだ。きちんと戦略的に対応できていれば、分水嶺を越えたときに政治的に決着を図ることができる。もちろん「負け組」の譲歩が必要だが、少なくとも流す血や被害は少なくなるはずだ。

ところが、客観視が苦手な人達は、これから想定される被害を少なく見積もり、講和のための譲歩を大きく見積もりがちである。だがそれは楽観的な見通しだ。そしてこれを比べて「まだいけるので、決戦に持ち込むべきだ」となる。戦略思考な苦手な官僚的人材が牛耳っていた帝国陸海軍の「失敗の本質」がその典型だが、これは程度の問題で、どんな戦いでも負けた方は大体この落とし穴に嵌っている。

この数年、左翼・リベラル・マスジャーナリズムが自暴自棄ともいえるような稚拙な攻撃で暴れまくっているのも、これが原因である。すでに2~30年前から支持を失い劣勢になっていたにもかかわらず、その状況を把握しようとすらしなかった彼等は、本当にどん底まで追い詰められてはじめて、自分達がヤバい状況にあることを知ることとなってしまった。

その分、もはや勝ち目がない状況であっても、それさえ理解できないまま最終決戦を挑もうとしているのだ。まあ、ある意味自爆テロのようなもので、暴れれば暴れるほど社会から白い目で見られるようになり、結果的に自分達の死期を早めているようなものだ。まあ、もはや世の中に存在意義がない連中なので、別に死期を早めてくれる分にはありがたいのだが、せめて他人を巻き込まないでくれ。死後も恨みを買うようになるぞ。


(24/03/22)

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