自立できない病





日本人の過半数を占める「甘え・無責任」な人達。このような人達の中にも、その要因を考えると二つのタイプが存在する。第一のタイプは「成果が出せないので、結果を見て見ぬふりをしたがる」人達だ。やり遂げられずに怠惰に過ごすのが好きな人や、人一倍頑張るだけで全然成果が出せない人などがその類型だろう。これらは結局、能力が足りないだけの問題である。自分の至らなさを思い知るのがイヤだから、甘え・無責任に逃げる。

第二のタイプは、他人との距離の取り方が決定的に下手だったり、人生の中で距離感を掴む訓練や経験が不足している人達である。人間関係の構築が上手くいかないのだ。それは社会や他人と接する経験が不足している場合もあるし、極度に過保護に甘やかされ社会の風に当たったことがない場合もある。しかし、普通の環境で育っていてもこういう状態になってしまう人は少なからずいる。

基本的に他人は他人であり、利用できる時は互いに利用し、ぶつかりそうになった時は離れればいい。自動車を運転する時の気の配り方と同じである。いや、群衆の中で歩いている時にも、我々はこのような距離感のコントロールを常にしている。インバウンドの観光客が、渋谷のスクランブル交差点でクロスする歩行者がぶつかることなく互いにすり抜けてゆく様を見て驚嘆しているが、あれができるのもこのような気配りをしているからだ。

これは人間関係でも同じだ。周囲をよく見て、素早く状況を判断してから行動すれば問題は起きない。が、相手の人間性や実態をきちんと見ないで、すぐに擦り寄ってしまう人達が一定数存在する。それでいてこういう人は頻繁に人間関係において問題を起こす。これが極端になったものがアスペルガー症候群だが、そもそも人間の精神状態というのはスペクトラム的に分布しているので、軽度の人間関係構築不全症の人々がそこそこ存在していると言えるだろう。

人間は、相手を100%信用してしまったらおしまいである。親や兄弟でも裏切ることはあるし、嘘をつくこともある。人間というのは元来ワガママなものなので、いつ自我が爆発するかわからない。それはどういう人間であっても、どういう人間関係であっても起こり得る。その時に備えるリスクヘッジとしての猜疑心を1%でも持っていることが、中長期的視点からの最適化には重要なのだ。

それでも社会的に甘えが通用してしまうことがしばしばあるのは、互いに持たれ合っていればそれなりにバランスが取れて平衡状態になることがあるからだ。「人という字は、人と人が互いに支えているのではなく持たれ合っている」のだ。何かを始めたり成し遂げたりすることこそできないが、お互いに甘え合い、依存し合っていても、あたかも相手が助けてくれたような気分になることは可能だ。

ただこの平衡は、コインの縁で縦に立たせているようなものなので、ある方向からの力が加わるとひとたまりもない。従って外圧には極めて弱い。日本社会にはじっとりと変化を拒む強い慣性力が働いている一方、グローバルな圧力には一溜りもないというのは、日本の組織にはこの「甘えの均衡」がはびこっており、官僚機構のようにそれが構造原理にさえなっているとこらさえあるからだ。

今やまさに「情報社会化」というとてつもない強力な外圧に晒されようとしている。情報社会においては、自分で責任を持ち自分で判断することが何よりも重要になる。ここでいかに多数派とは言っても、このような「自立できない病」の人達の意見が通ってしまっては、日本の滅亡は目に見えている。幸い、コンピュータシステムにはいくらでも依存できるし、いくらでも甘えられる。こういう人達には「コンピュータに使われる人」になる幸せさをぜひ理解していただきたいものだ。


(24/03/29)

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