情報社会におけるアートと表現(その1)





親しいアーティストが出展した展覧会を見にゆき、作品を前に話をしている中で「作品の本質」に話が及んだ。絵画や彫刻など「カタチ」がある表現作品は、社会的にはどうしても物理的な作品にのみオリジナル性を求めるのが基本になっている。作者が最初に作った作品こそオリジナルでありホンモノという考え方だ。これを基準にして、美術作品におけるホンモノとニセモノという概念が構築されている。しかしぼくの主たる表現領域は音楽なので、これとはホンモノに対する捉え方が著しく異なることに気付く。

音楽においては、そもそも歴史的に作曲者と演奏者という異なる表現者のコラボによって音楽作品が作られることが多かった。従ってそれを前提にしたホンモノ観が構築されている。たとえばどのオーケストラが演奏しても、ベートーヴェンの交響曲第5番「運命」はその同じ譜面に基づいて上演されれば皆ホンモノである。また演奏者の個性に関しても、オリジナリティーは十人十色あるがそれぞれがホンモノと認められている。ニセモノはいわゆるパクりであり、他人の曲をそのまま自作として発表した時やモノマネ芸をやる時などに限られる。

さらに近代以降では、技術の進歩とともに録音された音源を聴く音楽鑑賞が一般化した。この場合LPでもCDでもカセットでもストリームでもどれで聞いても、たとえばビートルズの「アビーロード」なら、ビートルズのオリジナル音源を使っているのであれば全てホンモノと認識されている。こういった背景があるため、ライブでの上演、録音音源の利用というように楽曲の利用形態が広がるたびに早くから著作権や周辺権という考え方が生まれ、そのための法整備が20世紀を通して行われ、ホンモノに関する権利も法体系として確立している。

問題は、情報社会への移行とともにディジタルという新しい表現ツールの登場し、絵画表現や立体表現の分野がそれまでとは全く異なる局面に突入したことだ。すでに今世紀のはじめからグラフィックデザインはほぼ全面的にディジタル制作に移行している。それは20世紀のCGのような特殊な世界ではなくなり、今までのキャンバスと絵の具、紙と鉛筆を越えた表現が、ディジタルの絵筆で自然で自在に表現できるようになっている。もはや、コンピュータは特別なものではなく、極めて一般的な「絵を描くツール」となっている。

一方3Dプリンターの高度化は、複雑な機械の機能性部品なども自在に出力できるほどに進歩している。3DCADデータとして自分が表現したい立体造形をインプットできれば、その通り出力してくれる。これを利用して今まで具現化できなかったような細密な立体表現も可能になった。これらのツールで制作した表現物は、モノは複数存在しうるが、いずれもアーティストが作った同じ元データから制作されているホンモノと言える。ホンモノの基準が、ハード的なものからソフト的なものにならざるを得ない状況になっている。

イサム・ノグチ氏の石像は、デザイン・ディレクションこそイサム・ノグチ氏が行うが、実際の石への彫刻作業は、専属の石工職人が行っていたことはよく知られている。それでも、社会的にはイサム・ノグチ氏の作品として認知され評価されている。同一作品が複数存在しているものもある。もっとも彫刻においては、青銅像などは昔からホンモノが複数存在していたし、巨大な彫刻である大仏像のように、多くの職人が関わらなくては制作不可能な作品もある。その場合もその大仏を作った仏師は歴然と存在している。

大型のインスタレーションには、クレーンを入れて専門のディスプレイ職人が組み上げなくては展示できないものもある。それでも作者の作品として評価されている。もっとも、これがとてつもなくデカくなった建築物の世界でも、「辰野金吾氏の作品である東京駅レンガ駅舎」のように作者と作品が認識されている。さらに現在の東京駅舎は、多くの部分が元の辰野氏の設計を元にJR東日本による平成の復元作業で鹿島建設により作り直されたものだが、それでも重要文化財に指定されているホンモノである。

版画やリトグラフの世界では、原版から刷ったものは全てホンモノである。もちろん浮世絵で言えば、原画師・彫師・摺師それぞれがかかわって出来上がる作品なので、彫師や摺師がことなるバージョンは別の作品となるが、それでも浮世絵としてはそれぞれホンモノとして認知されている。北斎や広重の浮世絵は、版木が伝世して残っているものもあり、これを現代の摺師が刷っても、バージョンが違うだけでホンモノである。

もっともコレクター的な値付けでは、最初のバージョンが最も高価になることが多い。が、これは真贋の問題ではなく、コレクターがみなそこに惹かれるからこそ人気が出るためだ。大量に印刷・販売される書籍でも、コレクターの間では初版本の人気が高く、相場も高いのと同じだ。もっとも小説として味わうには、第何版であろうと読者にとっての価値は同じで、全部ホンモノであることは間違いないのだが。

そういう意味では、表現作品や表現者全体を考えれば、社会の情報化に対応したアート観・作品観はそれなりに進んでおり、今までの20世紀においてもあった新しい技術やビジネスモデルへの対応の延長上の想定内の進化として、今後の情報社会における変化も捉えることができる。一方絵画・彫刻の伝統を受け継ぐ領域においては、パラダイムシフトや法体系的な権利のあり方の変化が必須である。次にその落とし処について考察してみよう。 (つづく)


(24/04/05)

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