情報社会におけるアートと表現(その2)





前回見てきたように、絵画でも彫刻でも音楽でも小説でも、芸術作品の本質はその表現にある。それだけでは目に見えない、カタチにならない表現こそがオリジナリティーなのだ。表現者の心の中にある炎を、どうやって第三者からも客観的に見える化するか。作品はそこから生まれた、表現したいモノを仮託された存在だ。だからこそ物理的な意味での「作品」はあくまでも表現したい心象のヴィークルであり、本質ではない。表現者にとっての創作の本質は、作品に込められた「心の中の炎」が生み出すソフト的なパワーの中にこそある。

ところが、作品に潜むそのソフト的エネルギーを読み取ることができる人は実は限られている。心の中に何らかの「表現したいモノ」を持っている人にとっては、作品を通して突き刺さる作者の「伝えたかった何か」は、激しく心に共鳴する。しかし、「表現したいナニカ」を心の中に持たないより多くの人にとっては、物理的・表面的な部分でしか作品を見ることができない。彼等から見ればあくまでもモノとしての絵画や彫刻が作品であって、その中のソフト的な本質は見えてこないのだ。

そういう中では、微妙なポジションにあるのが映画作品だ。映画表現というのものは、演劇と同じような時間軸に乗ったパフォーマンスとしての要素を持っているため、物理的なフィルムが映画なのではなく、上映してそこに現れてくる世界こそが映画だということは広く一般的に理解されている。映画を見て感じる感動こそが作品の本質であるし、それに対して料金を払っている。映画をはじめて見た子供でもある程度この事実を感じ取れるパワーを持ってるところが表現としての映画の特異性である。

一般の劇場で見ても、IMAXシアターで見ても、パッケージで見ても、ストリームで見ても、同じ作品であれば動かされる心は同じ。画面の大きさや音響のダイナミックさなど、エンタテインメントとしての迫力は違うものの、作品から得られる感動は同じである。理屈ではなく観客も本能的にこの事実を理解して楽しんでいる。まさにコンテンツの持つソフトパワーの本質が理解されている。これがあるからこそ感動を呼び、これがあるからこそ観客が集まる。

受け手はその感動を再現したくてコンテンツを何度も見る。地上波テレビで何度オンエアしてもかなりの視聴率を獲得するだけでなく、ビデオカセット、DVD、ブルレイといったパッケージメディア、インターネットのストリーム配信、どれにおいてもキラーコンテンツとなっている一連のジブリ作品などその典型的な例だろう。少なくとも受け手にとっては、チャネルやメディアが違っても、どれも同じ感動が得られるホンモノのジブリ作品である。

映画自体が人類史的には比較的新しい表現で、大衆社会になってから実用化されたメディアなだけに、コンテンツという無形のものが映画の本質であることを作り手も受け手も理解して制作・配給・興行が行われてきたことがこのベースにある。しかしこの理が社会的なコンセンサスとなっているところにこそ、これから一段と進化する情報社会におけるアート観、アートのあり方を考えてゆく上での大きなカギを見出すことができる。

アート以前に、世の中自体が、情報化と共に無形のモノにこそ本質をみるようになってきている。摩擦=0のニュートン物理学のような経済学理論でなく、ドロドロした人間の性を前提とした「行動経済学」が生まれ、「モノからコトへ」などと言われるようになって久しい。実際マーケティングにおいては、1990年代以降ハード的な使用価値よりソフト的な精神価値を重視するようになってきている。これブランド価値が重視されるようになったのと期を一にしている。

世の中自体がこのように大きく変化しているのだから、アートも変わらざるを得ない。表現における「モノからコトへ」。それは「感動を共有する情報」としてアート作品が捉えられるようになることに他ならない。表現者から見た場合、これはある意味創作の原点への回帰である。制作の目的は「心象の共有」にあるからだ。それが受け手に伝わることが「リアル」であり、表現者からすれば作品というモノに託した無形のメッセージこそが伝えたいものの本質だからだ。

しかしメッセージや感動より作品というブツの方を価値として重視する「モノ主義」が、日本の美術界では主流となってしまっている。そしてそのような「物質価値」はアーティスティックなセンスがなくても理解しやすいので、日本社会の一般的な価値感として広く共有されてしまっている。かくして教科書に載っているような「名作」と呼ばれている作品や、具象的なリアリズムで誰が見ても何かがわかりやすい作品が人々から賞賛されることになる。

このようになってしまったことの裏には、日本における明治以来の技術伝授中心の芸術系教育の悪しき影響も大きいと考えられる。表現者でない一般人においては、その美術観の多くの部分が学校における美術教育によって形成されている。そして美術教育においては、表現手段としての技術については詳しく語られるともに実習の機会も与えられている。その一方で、作品を通して作者が表現したかったものを読み取ることとか、ましてや心の中にある「表現したい欲求」に気が付くことに関する指導はほとんどない。

それが教育現場に馴染みにくいということもあるが、少なくとも国語教育においては文学作品のメッセージを読み取る(それがいかに形式的になってしまっていたとしても)が行われていることを考えると、いささか一方的と言わざるを得ないかもしれない。音楽においては校外学習等で「鑑賞」という機会が与えられることもあるが、それも漫然と聴くだけでそこから作者のイメージやメッセージを読み取るところまでは至っていない。これにより、創作できる才能が多少あったとしても、この学校教育においてその芽が摘まれてしまう場合も多々あるだろう。

かくして、表現の持つ本当の意味、そこに込められたメッセージは多くの人にとって永遠に触れることのないブラックボックスの中の世界となってきた。モノより無形の経験により高い価値を認める21世紀の情報社会においては、もはや旧態依然としたモノ至上主義の「絵画」の世界は守旧派の最後の砦の一つと言っていいだろう。しかし、そこにも社会の変化の波は忍び寄っており、もはや引き返すことのできないうねりとなっている。見る人の側から起こりつつあるこの変化について次回考察してみよう。 (つづく)


(24/04/12)

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