情報社会におけるアートと表現(その4)





すでにここでも何度も論じてきた「AIの活用法」からもわかるように、情報化・ディジタル化がもたらすものは、本質への回帰である。意味ある物事には必ず目的があり、そのためにその時々で最適・最善の手段が用いられる。産業革命も、生産のための手段として当初の蒸気機関のような動力が用いられるようになり、それまでの人力や獣力に頼っていた時代とは比較にならないほど生産力が飛躍的に増大することになった。

それ以降動力源も電力・内燃機関・原子力と発達する一方、そのエネルギーを利用することで色々な機械が実用化され、生産に関わるバリューチェーンの多くの部分が機械によって行われるようになった。このように機械に任せるプロセスは、生産という目的に対する手段の部分の多くを占めるようになる。これとともに手段が肥大してしまい、手段自体が目的化して本来の目的を見失いがちなのが産業社会の特徴であった。

機械化される部分が増える一方、生産において人間が携わらなくてはならない領域はどんどん先鋭化・高度化した部分へと特化するようになっていった。それは機械の特性として大量・均質な処理を得意としていたため、それ以外の例外的な部分は人的対応で処理した方が効率的だったからだ。しかし、そのような領域の作業はそれをマスターするだけで一苦労、長い年月の修練を経てモノになるものが多く、「職人芸」の世界でで対応せざるを得なかったのだ。

そういう時代においては、目的を明確に持っている人間よりも、テクニックを迅速に会得できる人材の方が重用された。これは産業社会の時代において機械化による対応が充分にできなかった情報処理を伴う分野では、勉強が得意な「秀才エリート」が重視された理由と同じである。現場に目的意識を持たない「職人」が増えてしまうことにより、彼等の得意分野たる「手段」自体を目的化する風潮がさらに増長される結果となったことは言うまでもない。

この状況が19世紀から20世紀にかけて続いたことで、社会全体で「手段の目的化」が著しく進むこととなる。「技」が目的を達成する手段としてその成果で評価されるのではなく、「技」自体で評価されるようになる。どれだけ結果を出せたのかではなく、どれだけ頑張ったのかが評価の対象と勘違いされるようになったのもこの影響である。だが、情報社会の到来によりこの状況にも変化が訪れる。手段は全部機械がやってくれるのだから、評価は結果でしかくだしようがなくなるからだ。

一方産業社会・大衆社会の到来はアート界にも大きく変化をもたらした。アートもそれまでのように審美眼を持つ王侯貴族がパトロンとなって表現者を抱えて作品を作らせていた時代から、産業革命と共に一気に市民層の「広く薄い」支持によってマーケットが成り立つ時代となった。これによりアート作品も大衆社会の「数の原理」により評価される対象となってしまった。美術にしろ音楽にしろ、19世紀を通してその在り方が大きく変わるのはこのためである。

それなりに教養があるとともに色々な芸術作品に触れる中で育ってきた王侯貴族の中には、パトロンとして抱えている芸術家達の持っている才能や表現力を評価し、その部分への支援を惜しまなかった人も多い。それがあるからルネッサンスから絶対王政期にかけてのヨーロッパにおける芸術の進歩があったのだ。しかし大衆社会となると、そのような深い眼力を持った人ではなく、不特定多数の市民にインパクトを与えられる作品の方がより強い支持を集めるようになる。

この結果、純粋芸術の大衆化が19世紀を通して進んだ。表現したい心の中の熱い炎がほとばしる作家よりも、技巧がすばらしいわかりやすい作品を作る作家の方が「広く薄い」マーケットにはウケがいい。そして大衆社会が完成する20世紀に入ると、メディアテクノロジーの発達により、複製技術が進んだことにより、アール・ヌーヴォーとポスターのように商業美術が生まれてくる。これと一線を画するかのように、ファインアートは現物主義に凝り固まるようになってしまった。

そういう意味では、我々が思っている「ファインアート」的な価値観というのは、たかだかこの百年程度の歴史しかない産業社会的な評価軸でしかない。そして情報社会の到来とともに、テクノロジーの変化が複製における本物性をアートのあらゆる表現手段においても担保するようになった。これとともに、技巧の部分ではなく人間ならではの「表現欲」がほとばしる「熱さ」こそが価値を持ち、作品としての評価を決める部分になりつつある。これもまた本質への回帰と言えよう。

今までは作品に仮託しなくては伝わらなかった「心象」が、ディジタルメディアを通すことで直接メッセージとして「観衆」と対話できる。カタチのある物理的な作品ではなく、いままではその陰に隠れていた表現者の「心」が直接メッセージとして評価されるようになる。これは先行していた音楽・演劇・映画など時間軸系の表現がすでに獲得したポジションを、絵画や彫刻といったスタティックでモノに結びついていた領域の表現でも獲得できるようになったことを意味する。では次に、それが表現者に対して与える可能性を考えてみよう。(つづく)


(24/04/26)

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