情報社会におけるアートと表現(その5)
では今まで述べてきたような、情報社会における象徴的な変化を示すものを具体的に例示しながら検討していこう。なんといっても今それを代表するものは、アート作品の制作におけるAIの使い方であろう。クリエイティブなアーティストからすれば、AIは高度な画材であり、有能なアシスタントである。レオナルド・ダ・ヴィンチの工房ではないが、古くから大勢の弟子やアシスタントを使って作品を作る芸術家はいたし、その作品は自身の作品として評価されている。
ということはAIを手段として利用しても、アート作品を創作できるし、その結果生まれた作品は作家自身の作品として評価し得るものになることを意味している。AIを職人として利用すればいいだけのことだ。その作品を創作物として認めるかどうかが、まさに情報社会におけるアートの本質を問うているのだ。これについては現状においてもすでに、付加価値を生み出す表現者と、依頼者の指示通りに製作する職人との間で、AIに対する評価が大きく違っている現象を見出すことができる。
まさにAIの評価が、その人が表現者なのかどうかを見分ける踏み絵になっているのだ。アーティストにとってAIは、丁度先に取り上げたイサム・ノグチの彫刻作品における石工や建築作品における建築労働者のような位置付けである。彼等は作品を作る上では重要な協力者ではあるが、決して作品の作者ではない。あくまでも、出来上がった作品は彼等の手が掛かっていてもアーティストの作品である。AIとアーティストの関係もこれと同じことである。
明確な完成系のイメージを持っていて、それを的確にディレクションして作らせることができれば、AIを使用してもそれはアーティストにとっては「画材」の一つであって、それを使いこなしてそこから生まれたものは明らかに作者の作品だ。写真作品を作る場合の、レタッチソフトとオペレータの組み合わせにたとえてもいいかもしれない。写真の場合には、銀塩の頃から暗室作業を専門の技術者に任せて作品を仕上げることも多かったので、オペレータの位置付けも受け入れやすかった。
このように考えてゆくと、おのずと情報社会におけるアーティストのアイデンティティーの基準が見えてくる。心象に完成された作品のイメージを浮かべた人が「作者」であって、手を動かした人やシステムが作者とはならないのだ。もちろん、「作者」自らがアナログ手法で自ら手を動かして作品を作ることも可能だ。その場合でも、作者の作者たる所以はイマジネーションの部分であって、手を動かした事実ではないのは言うまでもない。ディレクションするよりやった方が早いので、その部分も「ついでに」やってしまったということである。
表現者でない人間には、そもそも作品で表現したい「原イメージ」がないので、こういう構図は理解できない。さらに技術者や研究者で、表現者としてのセンスを持ち合わせている人は、さらに存在確率が低い。基本的にAIの開発に関わっている人は、表現の世界とは縁遠すぎるのだ。ここに大いなる勘違いが発生する原因がある。CGの初期がそうだったように、技術的習作は「作品」ではない。しかし、そこに絵があれば作品と思ってしまうところに間違いがある。表現者としての心得のある人が扱う分にはそうはならないのだ。
あとは、これを一般化すればいい。これによって表現作品の持つアイデンティティーやオリジナリティーの根源が明確になるとともに、あらゆる創作物を通して共通の基準が適応できるようになる。そして表現者の第一義的な役割も明確になる。そのようなコンセンサスができたなら、次は著作権法をはじめとする作品に関する権利の法体系を、そのコンセンサスと整合性のあるものに改めてゆけば良い。ここまで行けば、情報社会における創作作品のあり方は確立する。
このような認識が社会的に共有されるようになると、当然この逆のフィードバックも起こってくることが考えられる。こちらの方も考慮に入れなくては、情報社会が引き起こすパラダイム・シフトを正確に評価することはできない。それは今までにないユニークな技法を編み出した職人には、クリエイターとしての資質が認められることだ。すなわち今までひとくくりに職人クラスタとして認識されていた人達が、二層に分化することになる。この変化は見逃されがちだが、実はAIがもたらす変化の派生効果ということができる。
職人の世界では、師匠と弟子の徒弟制が中心になっていたが、単なる技の伝承だけではなく新たな技法を生み出す人もいた。それがあったから技術革新のイノベーションがもたらされていたし、後に続く後輩達に変化を与えてもいたが、徒弟制の流れの中に埋没してしまっていた。それが新しい流儀のオリジネーターとして別格の評価を受けるようになるわけだ。創り出したものがある人は、受け継いだだけの人とは別の存在である。これも「創造性」や「オリジナリティー」こそ人間の役割という、情報社会の新たな掟が光を当てた形になっている。
最後にまとめてしまうと、社会の情報化の進展により、ハード的な「作品」そのものではなく、そこに込められたソフト的な作者の心象やイマジネーションにこそ作品としてのオリジナリティーを見出し評価するようになる。それと共にハード的には複製可能な作品であっても、そこに作品としてのソフト的なオリジナリティーを認め、それが芸術作品評価の主たる対象となるということになる。ここまで貫徹して初めて、情報社会における新しいアートのあり方を決定するパラダイム・シフトが達成されたと見ることができるだろう。
(24/05/03)
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