やさしい世の中
90年代以降「マンガ」はマニュアルや注意書きはたまた教則本など、実用的な領域も含め色々なところでわかりやすい「見せ方」として、本来のコミックス以外にも幅広く表現法として利用されるようになった。当然それを描いてくれる「マンガ家」に対する需要も拡大している。本来マンガ家はストーリーテラーでもありビジュアライザーでもあったのが、こういうニーズに対してはひとまずビジュアライザーであれば対応できるので、そちらのニーズの方が高まってきている。
その一方でマンガを描き始めるきっかけも、教則本や教則ビデオが充実し、最近ではyoutubeに描き方教室もあるし、まず描き方の定石を学ぶところから入る人が増えている。やさしい世の中になったものだ。その結果定石をベースにそれに則ったやり方でしか漫画が描けない「漫画家」が増えている。それでも、役所のパンフレットや取扱説明書にも漫画が使われるぐらい需要があるので、それなりに仕事になってしまっており、そういう「漫画家」の描いた絵を目にすることも増えてきた。
こういう入り方をした「マンガ家」には、お決まりのパーツを組み合わせ、お約束の表情でしか人物を描けないという特徴がある。各コマの「世界観」がないのだ。その結果、クロッキーみたいな顔全体や人体全体としてのバランス感が欠如してしまっているので、特徴的な表情や動作をさせると、かなり崩れたプロポーションになってしまうことが多い。背景でも、個々の建物やクルマはそこそこ描けていても、画面全体としての構成がバラバラになってしまっている。
本来マンガを描きたいモチベーションとは「とにかくストーリーが湧いてきて描きたいから描く」とか、「絵を描くのが大好きで絵が湧いてきてしまうから描く」とか言ったところにある。その熱意があれば最初は荒削りでも、だんだんその人ならではの個性が生まれてくる。そうではなく、なんとなく「マンガが描けたらいいな」と思ってまず懇切丁寧な教則指導に従うところから入っているので、本来自己表現のための「手段」である「マンガを描くこと」が目的化してしまっているのだ。
この傾向は、他の表現手段、たとえば音楽などでも同じように見られる。音楽のセンスや見識がなくても、昨今では教則映像の懇切丁寧な指導に従えば、「その曲だけ」はきっちり奏くことができてしまう。その結果ギターならギターの奏法そのものをマスターすることなしに、その曲だけ奏けてしまうという「アマチュアギタリスト」が林立するようになる。おかげで昔以上に入門者にギターが売れるので、楽器店にとっては恩恵があった。
ある意味この権化は、「ヤマハ・エレクトーン教室」であろう。一般の音楽とは違うところに、独自の楽器で独自の世界を作り、その中で家元制度的なヒエラルヒーを構築することで、一旦ハマると抜け出せないビジネスモデルを構築した。その先には「エレクトーンの先生」しかないのだが、システム自体が自己目的的にその再構築の輪廻を繰り返すという、マルチ商法的な極めてよくできた仕組みといえる。
そうこうしているうちに「奏ける」ことの意味自体が変わってしまい、楽器をマスターして自分のモノとしていることではなく、その曲のそのパートをきちんと通せるかどうかになってしまった。昔は、教則映像はおろか、教則本も、コピー譜自体さえないのが当たり前だった。そうすると、全部自分で耳コピしマスターするしかなかった。そのプロセスで、自然とその楽器の演奏法や和声やリズムなど音楽の構造も発見し、楽器をマスターすると共に音楽自体に対する知見も深くなっていったのだが。
かくしてマンガ家でもいいし、音楽家でもいいが、その人物像として世の中一般で思われている常識や定説が、表現者ではなく職人の方に寄せられてしまった。これでは本末転倒である。職人が重視されて、表現者が軽んじられるというのは、確かに誰にも軸がわかりやすいという意味では「大衆化」路線ではあるが、今までになかった付加価値を生み出すという、芸術本来の意味からすると大いなる退行である。
この「ノウハウのイージーな切り売り」自体、世の中の情報化の産物であることは間違いない。だが、情報化はそんな甘い話だけでは終わらない。ノウハウの提供だけでなく、そのノウハウを自家籠中のものとしたAIを生み出してしまった。そしてAIに足元を掬われるのは、こういう「情報で促成栽培された、手先だけの職人」である。「やさしい世の中」は、ちゃんとその「やさしさ」の影に落とし穴を開けて待っているのだ。
(24/05/10)
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