仲良くしようと思うな
社会の情報化が進み、アナログの時代のように何でも対面で処理する必要が低くなったこともあり、他人との関係性の構築に必要な経験値が低いまま大人になってしまった人間をよく見かけるようになった。この傾向は、すでに20年ぐらい前の世紀の変わり目ぐらいから見られていたのだが、10年代後半からは特に顕著になり、いろいろトラブルを引き起こすことも目立つようになってきた。
人格形成期である十代の頃に、他人と揉めたり、喧嘩したり、仲直りしたりという人間関係のアヤを経験するからこそ、本格的に社会の荒波に晒された時どうしたらいいかを体感的に学べたのが20世紀までだった。90年代頃からは、十代の頃でも敢えて他人とコンフリクトを起こさないように、自分の人格を繭に収めてよそゆき顔で相手と接するタイプが多くなり主流となってきた。
これでは、いわば人間関係に関するノウハウがないまま、社会に放り出されることになる。結果いろいろな形で接する他人との関係性をウマくコントロールできない人が増えてきた。その歪が他責的に外側に向かえば、クレーマーになったりストーカーになったり犯罪的な所作を行うことになる。一方内側に向かえば、メンタルヘルスや鬱病になり自我が崩壊してしまうことになる。
現代社会における社会的疾患の多くは、このように人間関係の構築不全によるものといえる。一言で言えば、他人との適切な距離のとり方がわからないので問題が引き起こされているということになる。それもうっかり間違って接近しすぎてしまうから一触即発になるのだ。ということは、他人とは一定以上の距離を常に保つことがこの問題には効果的ということだ。平たく言えば「他人とは必要以上に仲良くしようと思うな」ということになる。
適切な距離感は、人間関係においては何より大切だ。これがあるからこそ、色々紆余曲折があってもいい関係性を続けられる。人と人の間での信頼は重要だが、他人と全てが分かり合えるということはあり得ない。だからこそ、相手を客観的に俯瞰することができるとともに、いざという時に「死なばもろとも」に巻き込まれないためにも距離を保つ必要がある。近付き過ぎるということは、互いに許せなくなる危険な領域、すなわち互いの虎の尾を踏んでしまうリスクが増すことでもある。
この距離感のバランスが保てない人は、大体どこかでトラブルになる。一心同体のような人間関係になってしまったが故に、借金の保証人にされて首が回らなくなる話は昔からたくさんある。自分は自分、相手は相手というケジメを引く線を明確に引き、それをきっちり守っていかないと、ずるずると一蓮托生の泥沼に引き込まれてしまうことにつながりやすい。組もうと思えばいつでも組めるが、互いの責任範囲がはっきりわかる距離感が大切だ。
互いに信頼関係があることと、べったり人格的に仲良しなこととは、全く違うのだ。お互いを敬意を持って相手を見れることが大事である。「人いう字は、互いに持たれ合っている様を示している」ではないが、お互いに持たれ合い、甘え合っているのは真っ当な人間関係ではない。しかし、もともと依存症的体質の人間はともするとそういう関係に陥りやすい。それでウマく回っている間は、これほど居心地のいい関係性もないだけに危険なのだ。
もともと「甘え・無責任」の共同体形人間が日本人には多かったところに、社会の情報化により人間関係構築の経験が薄い人が増えてきた。その結果、こういった「べったり持たれ合う」関係が増えてきてしまった。しかし、それは一旦破綻すると破滅的なカタストロフを呼ぶ。とはいえ、人間関係の構築は元々後天的な訓練により獲得する能力である。それならば、学校教育にこそ取り入れるべきではないか。AIが実用化した今、知識の詰め込みは不要になった。学校の必要性があるとすれば、こっちだろう。
(24/05/17)
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