情報社会のジャーナリズム
インターネットが登場した時から語られていたことだが、情報社会においてはシステム的には全ての情報が「等価」で流通しているので、それをどう受け止めてどう判断するかは基本的に受け手の自己責任に任されている。元々「神の元の平等」と「自己責任での行動」が社会のベースにあるアングロサクソン的発想からインターネットを含む情報社会の構想が生まれてきただけに、そのベースはあくまでも「自立した個が自己判断する」ところにある。
まさに「詐欺は騙される方が悪い」世界なのだ。共同体的ぬるま湯に浸りきって育った日本人が欧米で失敗することが多いのは、語学力とかコミュニケーション力以上に、この「他人を信じない力」が決定的に弱いからだ。「相手はまず自分を欺こうとしている」という疑いの目から入って、それを失うことなく、では一体どこで組めるのか、どこを利用し合えるのか、という可能性を考えることができて初めて、対等の関係性を構築しwin-winのアライアンスが組める。
相手を信じてしまう、相手に甘えてしまうところから相手の懐に飛び込むのでは、まるでカモがネギを背負ってやってきている状態だ。それでは相手にはたとえ元々の悪意はなかったとしても、「ちょっと足元を見てやるか」という邪な気持ちを抱かせてしまうに充分である。デジタルネイティブという言葉があるが、その本質は情報機器を扱うリテラシーのことではなく、まさにこのディジタル・インタラクティブな世界で世渡りをしてゆくためのノウハウを身につけているかどうかの問題だ。
流石に人間は環境が育てるだけに、今の30歳以下の人たちにおいてはこの辺りの嗅覚が発達している人は、それ以上の世代の人たちに比べると圧倒的に多くなっている。これが真の意味でのデジタルネイティブである。それとともに、世の中のルールも徐々に変わってきている。振り込め詐欺や迷惑メールではないが、ジジババは騙せても若い世代は騙せない。それはそもそも相手を易々と信用しない人が多くなっているからだ。それとともに世の中の色々なビジネスのあり方も変化を起こしている。
その典型が新聞ジャーナリズムだろう。「若者の新聞離れ」どころではない。もはや主流はアンチ新聞ジャーナリズムであり、新聞やテレビのニュースが言っていることについては逆張りした方が正解だと思っている人の方が増えてきていると言ってもいいだろう。よらば大樹の影的な権威に縋りたがる無責任な若者だけが、なんとか新聞やマス・ジャーナリズムを拠り所にしているが、それは決してマジョリティーではなくなっている。もはや輿論は誘導できないし、影響力があるのはは老人だけだ。
それは一次情報に容易にアクセスできるようになった情報社会では、善悪二元論に基づく「決めつけ」を基調とした産業社会的なジャーナリズムは成り立たなくなっていからだ。「決めつけ」や「レッテル貼り」は旧態依然とした左翼のやることであり、そのプロパガンダを公然と主張する新聞はもはや「天下の公器」でもなんでもなく、アジテーションペーパーでしかない「機関紙」である。言論の自由があるので、それをタダで配るのは構わないが、それを正論でございと売りつけようとするなど言語道断。
誰もが一次情報にアクセスできることを前提に、「決めつけ」や「レッテル貼り」をすることなく、対立する意見があればそれぞれの考え方を色を付けることなくかつわかりやすく解説することで、受け手が判断しやすくすることこそ情報社会のジャーナリズムの役割である。受け手の側が、こういう情報でないと受け付けなくなっているのだ。そして、マス・ジャーナリズムも市場原理に基づくビジネスである以上、顧客から見放されたら生きてゆく術がないのは当然だ。
受け手の側のこの変化に気付くことなく、百年一日のごときプロパガンダを垂れ流しているから、マス・ジャーナリズムは見捨てられることになった。当然のように、それをありがたがっているのは、産業社会的な理から抜け出すことのできない、頭が硬くなった老人だけである。20世紀的なマス・ジャーナリズムの発想にどっぷり浸ってしまったアタマでは、情報社会の掟を理解するのは不可能だろう。老兵は消え去るのみ。あとは新聞という言葉が死語になるのを待つだけだ。
(24/05/24)
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