アホの土手





20世紀の産業社会においては、初期においては生産力の基本が頭数、後期においても情報処理の基本が頭数と、大きい組織で人間の数を揃えたところが結果的にパワーを持ち、マーケットの競争の中で生き残れるという構造を持っていた。ある意味、産業革命以降の到達点としての産業社会・大衆社会というのは、ここでも何度も述べてきたように「数の力」こそが正義であるというテーゼの元に構築された社会であった。実際、当時はそれが勝負に対して決定的だったのだから、今更何もいうことはない。

そして、これもすでに何度も語ってきたが、この「数の力」を基本にした社会にとって普遍的な原理となったのが、輿論として「数の力」を基本に据えた民主主義である。民主主義というのは、この世に命さえある人間であれば全て平等に扱い、一人一票の権利を持つ。「数の力」が全ての根源にある以上、1はどれも1だし、1+1がどの1を足し合わせても2である。一人は一人、一人と一人が合わされば二人。誰であってもどんな人であっても平等に扱うというのが基本になっている。

それまでの社会のように、階級や人種、国籍など背負っている条件により、人によって扱われ方が変わってしまう社会とはここが大きく違っていた。それはある意味、産業社会の「頭数文化」のなせるワザであった。基本的なスキルが同じであれば、背負っているものは問わない。それは産業社会が求める人間像を表している。モダンタイムスではないが、大量生産が行われるようになった初期の工場のラインを考えて欲しい。流れ作業に求められるスキルをきちんとこなせば、国籍も人種も問う必要がなくなったのだ。

産業革命以降の産業社会の到来により、職業や人生に貴賎がなくなったという意味では、大衆社会における民主主義の実現は極めて重要である。一神教のように神の下における平等という、何か「重石」が必要な平等ではなく、民主主義が命の平等性を基本に置きつつ、同時に社会的に平等な扱いを担保するものでもあったというのは、人類史的には重要であろう。しかし、これは本質というよりは、産業社会的な「頭数文化」が求めて帰結であってことを忘れてはならない。

だからこそ、情報社会に入ると状況は変わってくる。産業社会においては「働きが同じ」だからこそ「権利も同じ」ということで、民主主義が普遍的になり、かつ充分に機能した。しかし情報社会になると、これまた何度も論じてきたように、コンピュータに使われる「甘え・無責任」な人達と、コンピュータを使う「自立・自己責任」な人達に階級分化してしまう。それまでは一様と思われていた人々が、社会に対する自主性と責任の取り方が全く異なる両極の人達に分化してしまうのだ。

この傾向はすでに顕著になっている。まず特徴的なのは「ポピュリズムの横行」だ。自分で責任を取る気がなく、宵越しの金は持たないという人々にとっては、将来の自分達や自分達の子孫のことを考える気などさらさらないのは当たり前。いわば「明日の100円より目先の10円の方に惹きつけられてしまう人達である。民主主義のシステムを使えば、こういう人達を野合させることはたやすい。飴玉を投げればホイホイ食いついてくるのだから、目先の調子いい言葉さえ投げかければいい。

この結果起こるのが「数だけの正義化」だ。利権を持っている官僚やそれと結託する勢力がバラ撒きを行えば、入れ食いの池の鯉のようにアホが集まってくる。そして餌に集まる池の鯉のようにアホが団結すれば、簡単に数を取れてしまう。数を取ってしまえば、民主主義体制では「勝ち」である。口先だけのポピュリズムも情念の勢いが爆発するとナチスが政権を取ったように危険だが、バラ撒き利権はシステム化できてしまう分、瞬間芸でなく恒久的に「民主主義」を利権化できてしまう。

どうやら、今の日本にはこれを狙っている一派が相当に跋扈していることは間違いない。その音頭を取っている官僚やマスコミをはじめ、「世のため人のため」という偽装をしやすいのも、この暗躍に拍車をかけている。そしてそれになびく「アホ」は五万といる。今や「民主主義」は、ダムを決壊させアホの洪水を生み出す危険をはらんだシステムとなってしまっている。チャーチルが語ったように「民主主義は最悪の政治形態である、ただし、過去の他のすべての政治形態を除いては」なのは確かだ。

それを過去の言葉にしないためには、ダムが決壊してアホの洪水が襲ってきても、それが世の中の全てを水に沈めることがないような「アホの土手」を構築することである。関東地方においては、かつては大川として隅田川に流れ込んでいた荒川と江戸川沿いに流れ込んでいた利根川が東京湾に流入するため、今の埼玉県東部と城東地区は常に氾濫を繰り返して流域は生活や生産ができない土地であった。それを江戸時代以降、水利工事を繰り返すことで流れを変え土地を作り出してきた。

すでに江戸時代に利根川を鬼怒川水系に繋いで直接銚子で太平洋に流すことで、多くの新田を生み出した。その後も不断の努力が続き、昭和初年に至って荒川と隅田川を分離するに至って治水の完成を見る。これを支えたのは利根川・荒川沿いの何百キロに及ぶ土手である。まさに今求められているのは、情報社会において民主主義を機能させるための世論の治水事業である「アホの土手」を築くことである。でもこれ実は、コンピュータを使う人とコンピュータに使われる人の分離と表裏一体のものだと思うんだがね。


(24/05/31)

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