フェイクニュース





大手新聞社による、意図的な切り取りに基づく「フェイクニュース」作りが後を断たない。ここまで毎日のように行われるようになると、単なるミスや特定の過激な思想を持った記者の先走りとかで引き起こされた、「例外的」な事例と見做すことはできず、新聞社自身の体質の中にビルトインされた「確信犯」的な行動と考えざるを得ない。そもそも真実に迫ってファクトを伝えようという気概がないのだ。

それどころか、自分達の勝手な思い込みや、自分達の理想する願望こそが「真実」であり、これを世に広めることが自分たちの使命と考えている節さえある。これはもうジャーナリズムではなくアジテーターであり、ジャーナリストではなく「活動家」になってしまう。しかしこの数年はジャーナリズム面さえ捨て、そのような「本性」を露わにした紙面ばかりになってしまっている。

少なくとも昭和の時代には、自分達の主観的意見はさておき、意見の対立があるものに関しては、一応両論併記で伝えることで、ジャーナリズムとしての最低限の体裁は整えていた。左翼的な紙面でも保守派の論調は載せるし、保守的な紙面でも左翼の主張も載せる。両論を対比させる表にして掲載することもしばしば行われていた。少なくとも、最終判断は読み手に考えさせるものでなくては報道ではない。

これが歪んできたのは、自分達に都合の良い情報をニュースとして流し、それを世の中の人達が信じてしまうというのを長年繰り返していたため、ある種の「全能感」に溺れてしまったからであろう。自分達が輿論をコントロールできると思い上がってしまったのだ。かくして新聞紙面は、本来ジャーナリズムが持っていなくてはいけない「正義感」からどんどん乖離していってしまった。

ある意味、自分の流したフェイクニュースを人々が信じるというのは、あたかも自分が世の中を動かしているような錯覚を引き起こす。それが事実から遠ければ遠いほど自分の存在感はより大きく感じられるし、その反響の手応えも強くなる。事実からかけ離れたフェイク情報でも、自分達のブランドで流すことで人々が事実だと信じてしまう。これにハマってしまうと、あたかも自分が「神」になった気になるのだろう。

とはいえ、嘘は嘘だ。嘘を信じさせているのだから、結局のところ詐欺でしかない。とはいえ、記者自身が脳内お花畑状態で、もはや何が客観的な真実で何がフェイクなのかわからなくなっているし、新聞社内は皆そうなっているのだろう。だからそれを戒める者は社内にはいないし、たとえ社外から指摘されたとしても「思想信条の自由」を持ち出せば、それ以上追求されることもない。

このようには、フェイクニュースはどうやら断末魔になったマス・ジャーナリズムが、なんとか世の中に花火を上げようと焦って犯行に及んだものではなく、日本の新聞社がずっと持ち続けていた体質のなせる技なのだ。確かに朝日新聞の「サンゴ事件」とか、昔からマッチポンプでフェイクニュースを発信していた事例はいくらでも上げることができる。気が付かないだけで、フェイクだった記事は予想以上に多かったのだろう。

昔の情報環境では一般人が裏取りをすることは難しかったので、関係者に緘口令を敷いて真実が漏れないようにしてしまえば、ワリと簡単にフェイクを真実の如く見せることができた。これが社会の情報化と共に色々なものがディスクローズされるようになり、その矛盾を突くのが容易になってきたため、その手口が白日の元に晒されてしまうようになった。それでバレるようになったということだろう。

情報社会では、ニュースは一次情報だけあればいい。中途半端なバイアスをかけた「評論」はいらない。実際、ビジネス界においては、メディア情報より直接発信された一次情報を重視するようになった。リテラシーが上がっているので、デジタルネイティブな世代は一次情報にアクセスして自分で判断している。新聞がいくら騒いだところで、もはや社会的影響力は持たなくなっている。

新聞離れという、ある意味情報社会の持つ市場原理が需要のなくなった新聞を淘汰する流れは、もう引き戻すことができないくらい太くて強い流れとなっている。新聞という機能は、社会がもはや必要とせずその存在を否定しているんだから、どんなに騒いだところで遠吠えでしかない。フェイクに溺れた新聞よ、泥舟ととも歴史の波の中に消えるがよい。


(24/06/07)

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