教養と礼儀
AIの時代には、知識は機械の役割となり、人間は社会の「心」を担う役割が中心になる。社会システムのパラダイムシフトが起こると、それまで必要とされた人間の能力がそれほど重要なものではなくなり、それに変わって新たな人間の能力が求められるようになるのは、いままでの人類の歴史が示しているところである。その典型的かつ至近の事例が産業革命である。
産業革命により、基本的に人間の手作業で行われていた生産が、機械により行われるようになった。特に大きな「力」が必要とされる作業においては、人間ではとてもできないような強力な「力」を発揮する機械の導入により、それまでは作ることすらできなかったような巨大な構造物も構築可能になり、19世紀・20世紀と続く人類史上かつてない経済成長をもたらした。
「力仕事」が機械の役割となった以上、それまでの生産には必須だった「腕力」は問われないようになった。このため力仕事を得意としていた労働者は職を失い、打ち壊し運動などが起こることになる。また機械の運転はさほど腕力を必要としないので、女性や子供が工場労働力の中心となり、結果的に社会問題を引き起こすに至ったことは歴史が示している。
今その最中にある、産業社会から情報社会への変革でも同様のことが起こっている。産業革命においては、生産部門において機械化による飛躍的な生産力の拡大をもたらしたものの、その管理運営にともなう情報処理においては技術革新がついてゆけず、人海戦術による対応が必須となり、本社部門ホワイトカラーの肥大化という結果をもたらした。
そこで求められたのが、知識が豊富で情報のハンドリングに長けた「秀才エリート」である。彼らが本社部門の中核となることで、人海戦術による情報処理をこなしていたのが20世紀半ばまでの組織のあり方であった。その後20世紀の後半にコンピュータが発明され、情報処理の領域でも徐々に機械化が進んでいった。そして21世紀に至ってその完成形とも言えるAIの実用化に至った。
そういう意味ではもはや「秀才エリート」を必要とする組織はあり得ない。とはいうものの、既存の組織の中には「秀才エリート」が大勢組み込まれているし、一瞬にして彼等を一掃することもできない。かくして変革期においては、アンシャン・レジームを残しつつ、いかに新たなスキームを構築して行くかというのが、組織が今後も生き残って行くためのカギとなっている。
では今後の組織においては、どういう能力が重視されるのだろうか。それを明確に意識していれば、この変革期をウマく乗り切ることが可能だ。それはひとえに本質的な人間力である「教養と礼儀」である。これは一朝一夕に勉強すれば身に付くようなモノではないところが重要だ。まさにミームとして、人格を形成してゆく中で「刷り込まれる」ものなのである。
心が豊かに育った人間だけが、「教養と礼儀」を身につけることができる。ところが、心も懐も貧しい中で育った輩でも、偏差値が高いというだけで秀才エリートとして重用されたのが産業社会である。逆に「教養と礼儀」から遠いところで育った人間ほど、一旗上げてやろうとばかりに、勉強して良い点を取って秀才エリートとして身を立てようと躍起になりがちだ。
かつて階級社会だった頃は、有責任階級(江戸時代は武士)と無責任階級(江戸時代は町民・農民)がはっきり分かれており、権力の座につく可能性のある有責任階級に対しては、単なる知識だけでなく、教養や礼儀などを含めた教育は行われていた。明治以降の教育制度の下では、無責任階級に育った人間でも点数さえ良ければ良い学校に入り、「秀才エリート」になれるようになった。
かなり崩れてしまっていることは確かだが、今の日本にも「教養と礼儀」を身に付けて育った人はそれなりに存在する。これからの社会においては、重視するのは偏差値ではなく、この「教養と礼儀」がどれだけ身に付いているかである。これを持っている人間を見つけて重用する。これができるかどうかが、情報社会において国威を発揚できるかどうかを分けるポイントになる。
(24/06/14)
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