バラ撒きの論理





暇空茜氏が提起した公金チューチュー問題。確かに福祉の美名の名の下に多額の補助金や支援金を偽装して巻き上げている福祉団体や人権団体の行動には許しがたいものがある。しかし公金チューチューが起こる背景を考えると、公金を無見識にバラ撒いているいわば公金バラバラの官僚集団が先にいなくてはチューチュー据える金は出てこず、この構造が成り立たないことに注目すべきだ。

現状では甘い汁を吸っていい思いをしている側が問題の中心になっている感があるが、そもそも構造的な問題点はそこではない。ずぶずぶのノーチェックで、予算をバラ撒いている官僚こそが問題の元凶なのだ。そこには因果関係がある。汚職で言えば賄賂をもらって便宜を図った収賄側も悪いが、そもそも賄賂を渡して便宜を図ってもらおうとする贈賄側がいたことが問題の元凶となっているのと同じである。

それはバラ撒きを仕事としてしまっている、官僚の側の体質と深く関わっている。そもそも官の仕事を金の流れという視点から見れば、「税金で集めた予算(これが公金だ)をいかに年度内に使い切るか」ということしかない。さらには税金を集めて各官庁に配る人(財務省だ)と、その予算を実際に使う人(各省庁だ)がわかれていて、それぞれがブラック素ボックス化している。

集める人は集めることにしか責任がなく、使う人は使うことにしか責任がない。このような役割分担の中で割り当てられた予算を年度内に使い切るのが官庁の本質である。どういう仕事をしたかより、予算を全部使ったかどうかの方がクリティカルな問題なのだ。このため、民間のように利益や売上といった予算を達成したかどうかといった、事後の評価というものが一切ない。PDCAどころではない。

おいおい、使い切るための論理が優先される。予算支出に当たっては形式要件を満たしているかだけの審査しか行われず(但し、形式要件を満たすためには厳しく形式主義を守る必要があるが)、それがクリアできれば内容は問うことなく予算は支出されてしまう。そして、支出されたことを以て「仕事をした」ことと認定されてしまうのだ。事前も事後も、質的評価はされない。

その一方で官僚の基本的な評価基準は、どんな仕事をしたかではなく、天下りの椅子をどれだけ作り出したかにかかっている。天下りの利権を作れば作るほど上司の覚えも良くどんどん出世できるし、自らもそのあとおいしい椅子をGETすることができる。おいおい、天下りの椅子が作れるような相手には、それと引き換えにどんどんバラ撒くようになる。

NPOや一般社団法人が悪の伏魔殿になる原因がここにある。実質のない怪しい組織であればあるほど、天下りの椅子は作りやすいし、バラ撒いた補助金も、組織と天下りの元官僚で山分けしてどちらも美味しい思いができる。公金チューチューしている民間人は、実はこの官僚の行動原理の元で、その手先や道具として踊らされているだけのことである。この問題の本質は、日本の官僚機構そのものにある。

高度成長期までのような発展途上の段階では、傾斜配分方式のような、官主導の成長政策も必要だったろう。その時代においては、官僚機構も必要とされたし、それなりに役割を果たしていたであろう。しかし高度成長を遂げて先進国の仲間入りした80年代以降は、こういう配慮は不要になった。実はそれとともに、肥大した官僚機構は無用の長物となっていたのだ。

しかし、組織というものは合理的な目的がなくなると、自己目的的に膨張を始める。このため「官僚のための官僚機構」として、公金を乱用して自らの利権たる天下りの椅子を増殖させることが目的となった。エサを撒くからこそ害虫が群がってくる、悪いのはエサを撒くヤツだ。ここにメスを入れなくては、日本は立ち直れない。日本をダメにした癌細胞、それは霞ヶ関なのだ。


(24/06/21)

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