ダブルスタンダード





左翼・リベラルに特徴的な行動様式として、やっている中身は同じでも、自分がやることは全て正しく、「敵」がやることは全て間違っていると決めつける「ダブルスタンダード」がある。「敵」への批判が全て自分に当てはまってしまうことからブーメランとも呼ばれている。現代の日本では立憲民主党や日本共産党のお家芸となっている。特に左派野党の退潮があらわになった2010年代以降、この傾向が顕著になった。

法治主義の近代国家に暮らす通常の常識的な「大人」であれば、人の行動は結果で判断されるものであり、同じ行動は誰がやっても同じように評価されなくてはおかしいと思うのが基本である。一人殺した殺人罪なら10年以上の懲役になるし、二人殺せば死刑を覚悟する必要がある。量刑の基準があり、情状酌量はあっても基本的に同じ罪には同じ刑が科されるのが法治主義の基本だからだ。

だが彼等は物事を客観的にみられない。同じ事でも、自分がやるのは正義で、相手がやるのは悪になってしまう。あくまでも属人的にしか物事を判断できない。仲間と「敵」の二元論でしか、価値判断ができないからだ。要は、左翼というのは法治主義ではないのだ。そもそも左翼的な政治活動が始まった産業革命後のヨーロッパにおいては、それ以前の人治主義の残渣が残っていてそれが左翼に受け継がれたのであろう。

弱い立場に置かれた自分達を救ってくれるのは、沸き起こりつつあった市民社会ではなく、それと対抗できる昔のような近世的な強い権力しかない。そこへの期待が、民主主義・自由主義を志向しつつあった現政権と対立するイデオローグとなる左翼に寄せられた。そして権力奪取を目指していた活動家達もその流れに乗る形で社会主義・共産主義の政党を作って政治活動を行うようになったのだ

確かに過去の例を見ても、ソビエト連邦や中華人民共和国など共産主義の国家はおよそ皆独裁制で全体主義であり、独裁者が恣意的に司る人治主義の政治機構であった。彼らは民主とか平等とか叫びがちだが、独裁制の全体主義国家では確かに一般国民は「貧しく自由がない」ことにおいては全員同じ条件下にあり、権力者以外は極めて「平等」だったことは間違いない。

基本的に思想信条の自由があり、それは何よりも尊重すべきなので、個々人が独裁制の全体主義を志向するのも一向に構わない。しかし、それならばキチンと「独裁制で全体主義」を目指していると主張すべきだ。変に民主主義とか平和主義とか主張して偽装するのはイカン。それでは「嘘つき」になってしまう。嘘は決して許されるものではない。彼等自身、何か後ろめたいものを感じているので、嘘に逃げるのだろう。

そもそも共産主義思想自体、哲学者でヴィジョナリストであったカール・マルクスのユートピア論を、活動家であったエンゲルスが政治的アジテーションに換骨奪胎して生まれたものである。あり得ない理想郷をユートピアとして描くのは一向に構わないが、それがあたかもすぐに手に入るものであるかのように騙してその気にさせるのは詐欺である。マルクスの理想とエンゲルスのアジテーションはそのくらい異質なものだ。

このように、左翼とはそもそも嘘・詐欺からスタートしたものである。自分たちを正当化するためには、客観的に物事を判断して嘘を嘘と見抜かれるのが最も忌まわしきこととなる。かくして客観的な法治主義とは相性が悪く、自分達は全て正しく自分達に楯突くものは全て間違っていると決めつけることが、自分達のアイデンティティーとなってしまったのだ。

左翼にとってダブルスタンダード・ブーメランの人治主義をやめることは、自分達の考え方を否定することと同値なのだ。これでは議論はできないし、一つの空間の中で共存もできない。やはり「鉄のカーテン」を作ってもらった上で、その中に籠っていただくのが一番平和に共存できる道なのだろう。歴史は繰り返す。左翼がいる限り、鉄のカーテンの不要になる日はやってこないのだ。


(24/06/28)

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