正誤と好き嫌い





料理、ファッション、エンタメといった「楽しむ」世界でも、なぜか「正解」を求めたがる人がいる。こういう「楽しむ」領域においては「好き・嫌い」こそあるが、「正しい・間違った」という基準はない。納豆が好きでも嫌いでも個人の勝手だし、嫌いなら食べなければいいだけの話。それを納豆を食わないのは間違っているといって、無理に食わせるというのはいかにも馬鹿馬鹿しい。

このような例ならみんな笑って受け入れるだろうが、これと同じレベルの「正誤論」を持ち出して、偉そうに堂々と語る人は結構多い。「なんとか警察」みたいに筋論を振り翳して他人の所作を間違っていると非難する人など、これの典型であろう。こういう人達は、正解がないと自分がどうしていいのかわからなくなってしまう。だからこそ、必死に自分が正解と思うものに縋るのだ。

こう考えてゆくを理解しやすいが、自分の行動規範が自分の中に自律的にある人は、何を選ぶのかは「好き嫌い」で判断できるが、自分の行動を規定する基準がを自らの中にない人は、その基準を自分の外に求めるため何事にも「正誤」のレッテルを欲しがってしまうのだ。自分で判断ができず、自分以外の誰かの基準に頼ろうとする人は、正しいか間違っているかという二元論に頼り「正しい」方を選ぶ以外に選択ができない。

自分で好き嫌いを判断し自信を持って主張できるだけの自己を持っている人なら、人が何と言おうと自分はそれは好きだ・嫌いだと主張できるし、他人が自分と違う意見でもなんとも思わない。その一方で自分で自分の好き嫌いを決められなかったり、自分の思っていることを人前で主張することができない人は、他人の威を借りていいと思う方をアピールすることしかできない。

このため自分を持っていない人はおいおい主語があいまいになり、「自分」ではなく「みんな」とか「普通」とかでモノを語る。自分が選んだのではなく他の人達が選んだ結果に従わざるを得ないので、その結果(世の中的には)こっちの方が正しいという言い方しかできなくなる。「私」か「みんな」か、どちらの物言いをしがちかということで、自立した自分があるかどうかがわかってしまう。すぐ「市民」を主語にする皆さんも同じ構造だ。

そもそも、日本人にはこういう自分を持っていないで付和雷同している人が多い。そのせいか、日本料理や寿司は和食道・寿司道になってしまい、正当性を競う無意味な精神論を振りかざしがちだ。これは日本料理特有の現象であり、たとえば中華料理には何が正当かみたいな議論はない。ヨーロッパに行ってもヌーベルキュジーヌみたいなのは、フランス料理の伝統上に位置付けられている。

そういう意味では島国根性と大陸的発想の違いということもできる。中華料理でいえば、「中華」という概念自体が、ボーダーがあるのではなくまつろうかまつろわないかだけの区分けである。近代国家における国境的な概念で絵はなく、敵対すれば夷狄、まつろっていればなんでも中華になってしまうのだ。だから、元や清のように北方民族出身でも王朝を立てて中華の正統を引き継げる。

このていで行くと、一応中華鍋や中華蒸籠など中華料理店の調理器具でできるものは全部「中華料理」らしい。シルクロードを西へ旅すると、オアシス都市ごとに肉野菜旨煮が段々スパイシーになり、八宝菜がいつの間にかカレーになっている。マクドナルドが初めて北京に出店した時に大人気を博したが、当時の中国人の多くはハンパーガーを「美式面包」(米国式肉まん)として捉えていたという。

これなのだ。「来るものは拒まず、去る者は追わず」で対応せざるを得ない大陸と、嫌でも顔を突き合わせてしまって逃げられない島国との違い。ローカルルールのガラパゴスで行く分には「正誤二元論」でも通じるかもしれないが、これは決してグローバルに通じるものではない。海外で通用しない日本人が多いのは、語学の問題よりこの「他力本願」さにある。これができない人間は海外で活躍しようと思うべきではない。引きこもっているのがお似合いだ。


(24/07/12)

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