ベンチャー時代の終焉






世界的にベンチャービジネスというコトバがもてはやされたのは、マイコン革命の起こった1970年代の後半以来だろう。ということは、かれこれ20年以上の歴史があるコトバということになる。企業の寿命が30年といわれた時代すら一昔前になり、当時これまた流行った「エクセレント・カンパニー」さえ、軒並み討ち死にしてしまったではないか。こんなカビの生えたような昔の概念である「ベンチャー」が、いまだにうやうやしく扱われるというのはどうかしている。ちょっとおかしいのではないか。というより、すでにベンチャーの時代なんて終わってしまったのではないか。こういう視点からちょっと考えてみたい。

そもそもベンチャーの本質はニッチにある。エスタブリッシュされたものがあったからこそ、その対極にニッチがある。保守本流がどっしりと構えているからこそ、そのカウンターパワーとしての異質な存在がかがやきを持つ。ベンチャーの本質は、円熟した工業社会の企業秩序に対するアンチテーゼというところにある。そう考えれば、工業社会の秩序と構造がまだ生きていた70年代、80年代だからこそ、ベンチャーがもてはやされたという事実は容易に理解できるだろう。

しかし、世紀末を迎えての産業構造の変化には驚くべきものがある。すでに工業社会は死んでいる。少なくとも、近代を支えた「先進国」においては間違いなく時代遅れの無用の長物となっている。ということは、ベンチャーを支えてきたエスタブリッシュがなくなってしまった。旧ソ連の崩壊後、東西の冷戦構造を前提として組み立てられてきたすべてのものが、その存在意義を失い、再定義を求められた。それと同じように、工業社会の行き詰まりを前提としてその存在を定義づけていたベンチャーは、工業社会自体の崩壊を目前にして、再定義を余儀なくされている。

それだけではない。ポスト工業社会の時代では、いままでのエスタブリッシュである大企業といえども、猛スピードで自分を変化させつづけなくては生き残れない。変化するだけの体力と知力のある組織は、強力に自己変革を押し進めることで「勝ち組」となる。その余力を持たない組織は、工業社会と共に消え去る「負け組」となる。そして、この自己変革は一度で終わるものではなく、これから未来永劫続いてゆくモノなのだ。カウンターカルチャーやオルタナティブというのは、どっしりと不動のメインストリームがあってこそ存在する。すべてが転がる石にならなくてはいけない時代では、そういう二極構造は起こり得ない。

その一方で、ベンチャースピリットというか企業化精神は生きている。自己変革のためには、イノベーションの原動力たる企業家精神は不可欠のものだ。アイディアだけでニュービジネスを起こせる時代ではなくなっている。しかし大企業の経営資源を動かす目的にこそ、ベンチャースピリットが求められている。経営改革、流通改革。構造改革とは、保守本流が自ら企業家精神を取り入れ、改革する必要性にめざめることなのだ。変わらなくては生きてゆけない。ビジネスの本質は、保守的なものではない。常に企業としての活力を得るためには、新しい環境への適合を図ってゆかなくてはならない。

たとえば今ハヤリのe-コマースも、既存の流通の外側に何か別のものを構築することではない。そういう試みも多いが、その多くが失敗に終わっている。既存の流通に強みを持っているもの自身が、既存のシステムをITで解体・再構築し、最適化を図ってはじめて成功の方程式となる。つまり今問われているのは、工業社会の構造を本質的に変えた新しいシステムを、工業社会の内側から構築できるかということ。この体力は、ポッと出の新興勢力にはない。既存システムにコミットしているもの自身が、自ら破壊力を発揮しなくては不可能だ。

人材という面でも、ベンチャーの時代は終わっている。情報革命が始まった時代は、ベンチャードリームの最盛期でもあった。この時期のベンチャービジネスを支えたのは、天才的な技術を持った人達だ。彼らは一言でいって技術オタク。採算を度外視して、技術に没入した。19世紀の化学技術を支えた発明家、発見家と同じく、彼らの人生の目標自体が、その分野を極めることだった。その典型は多くのソフト会社を起こした天才プログラマたちだろう。彼らはプログラミング自体が趣味であり、自己表現の手段でもある。だからこそ、今までになかったアルゴリズムを生み出したり、超スピードのドライバを書いたり、ユニークな構造のゲームを創り出したりした。

こういう人達がベンチャーの主役だった時代なら、彼らのパワーにより、ユニークなオリジナリティーにあふれ、驚くべき質の高さを持つ仕事を期待することができた。しかし、いまやベンチャーというコトバに反応するのは、そういう人達ではない。金儲けしかアタマにない、ウサンくさい山師的な人間が跋扈するようになったベンチャービジネスからは何も生まれてこない。ベンチャーキャピタル自体が、事業を育てることより、高く売り抜いてキャピタルゲインを得ることにしか興味がない。やっていることは仕手筋と同じだ。黒いビジネスマンとのつながりも深い仕手筋が、事業という面では何も生み出さないのと同じく、ベンチャーからは何も生まれてこない。

ベンチャーだからという時代は終わった。ベンチャービジネスは、工業社会の崩壊期に現れた特異な存在だったということができるだろう。もはやベンチャードリームは期待できない。しかしベンチャースピリットの本質たるイノベーション・企業家精神は、規模に関係なくすべての企業に必要不可欠な時代となった。まさに、ベンチャーのパラダイムシフトだ。「虎は死んで皮を残す」ではないが、ベンチャービジネスの時代は去っても、ベンチャースピリットの時代はこれから全盛を迎えるだろう。この違いがわからないようでは、これからのやってくる荒波を乗り切ることはできない。


(00/03/31)

(c)2000 FUJII Yoshihiko


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