ジャーナリストの掟
ジャーナリストこそ、自分でモノを見て判断し、自分の言葉で客観的な情報を伝えられる人でなくては存在意義がない。事実を伝えた上で意見を言うのは自由だが、その前提としてファクトについてはあるがままを伝えること、意見を述べるのは賛否両論の場合は両論併記した上で行うことが必要とされた。あくまでも事実を事実として脚色なく伝えた上で、自分の意見に賛成するか反対するかは読者の判断に委ねなくてはジャーナリズムたり得ない。
まず「自分の言葉で語る」部分だが、自分の意見ではなくある特定の主義主張に従ってその筋の権威者の発言ばかりを引っ張り出してくるマスコミの記者は結構多い。権威主義的になって他人の威を借りてモノを語るのでは、ジャーナリストたるアイデンティティーがないではないか。果ては誘導尋問よろしく、有識者から自分の都合のいいコメントを取りたがる記者もよく出会う。自分で自分の意見を語る勇気がないから、他人のネームバリューに頼るのだろう。
そもそもファクト資料ならいざ知らず、他人のコメントの引用というのはジャーナリズムではない。引用した言葉は元の発言者の物言いであって、自分の物言いではない。おまけに引用が多い記事では、読者にとっては引用元を確認することが難しい以上、それが正当な引用なのかも判断しづらくなる。それだけでなく、誤引用や意図的な誤解を生じさせる「切り取り」も起こりうる。さらには捏造が入る可能性もある。
それなら間にジャーナリストのワンクッションが入るよりも、元々の資料を直接参照した方がいいということになる。確かに、かつては基本的には通信社の機能とされていたが、一次情報を色を付けずに配信して伝えることに徹するタイプのジャーナリズムもあった。ファクトだけを伝える役割は、これはこれで意味がある。一般のメディア・ジャーナリズムでも、受け手がファクト情報を重視する経済部や社会部の記事はこの傾向が強い。
特に経済記事については、情報を伝えて欲しい企業の側からすると、マスメディアにその情報を載せることで広めて欲しいというニーズがあった。「記者発表」というイベントが重視されたのもこのためである。ニュースリリースを作り、それを記事として掲載してもらうのだ。しかし社会の情報化が進み、オウンドメディアで情報発信ができ、いわば誰でもニュースリリースそのものにアクセスできるようになった。
この手の「通信社でござい」タイプのジャーナリストは、本来一次情報を一切色付けせず客観的に伝達することに意味があった。しかし「朱に交われば赤くなる」ではないが、大手新聞社では主流のアジテータータイプの記者の影響を受けたのか、客観的なファクトでなくても自分の伝えたことは人々が真実と思ってくれる、と増長するようになってきた。それが信頼感の元であったにもかかわらず、長年の間に変質してしまったのだ。
こうなると、もうジャーナリズムは腐り切る。客観的な真実を伝えるのではなく、読者に真っ当な判断の場を与えるのでもなく、自分の個人的主張をそれらしく権威づけてくれる「有識者」の言葉と共に伝えることで、ウソもマコトにできるマシンを握っているという気になってしまうのだ。そしてそれを自在に扱える記者は、モビルスーツにでも乗ったかのような気分で輿論を操作できると思い上がってしまった。
流石にここまでくると、読者も匙を投げて相手をしない。メディアとてビジネスである以上、見られて・読まれてナンボである。全体主義独裁国家の「機関紙」ではない以上、生活者からソッポを向かれ裸の王様であることがあからさまになってしまっては影響力は地に堕ちる。いや逆に反面教師として、マス・ジャーナリズムの主張の反対の方を選べばまず間違いないとさえ思われるようになってしまった。
これが21世紀の情報社会についていけなかった者の末路である。社会の変化とともに必要なくなってしまった「職種」も世の中には多い。ジャーナリストの掟から外れてしまったマス・ジャーナリズムの記者達も、その歴史の1ページに刻まれることだろう。しかし、これはジャーナリスティックな視点が不要になるということではない。きっちりとジャーナリストの掟を守れる在野のジャーナリストにきちんと居場所があるのも、情報社会の特徴だからだ。
(24/07/26)
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