信念、再び





自分の信念があって、その美学を貫きたいがために社会に叛旗を揚げるのは社会的に許される行動である。もちろん意図的に法律を破ったり公序良俗に反したことを目的としてやるのは問題だし、結果として他人に迷惑や負担をかけたりすることになってもいけない。だが、純粋な心から行ったことが多少の勇み足程度の逸脱を招くのは許容の範囲であろう。

売れ線とは違う自分の世界を創り上げるカウンターカルチャーやアバンギャルドのアーティストなどは、その典型である。社会の常識や定説と、人間本来のドロドロした感情とのズレを作品として世に問うことは、表現の新しい可能性を広げることにも繋がる。どんな表現も新たに登場した時には、世の良識からの反発を正面から受けてきたのは人類の歴史が示している。

ところが似て非なる「反体制」も歴然と存在する。反対のための反対として世の中の価値観に反する行動を取ったり、目立ちたいためにあえて反社会的なことをやるのは、自己満足に過ぎない。既存左翼であろうと新左翼であろうと、左翼の活動家の行なっている「反体制運動」は完全にこの範疇に入るものである。

だから、反対する相手である社会の基本的価値観が変化してしまうと、自分の論点も180°変わってしまい、昨日の自分と今日の自分で主張していることが矛盾し始める。左翼やリベラルが良く嵌まり込む「いわゆるブーメラン」は、基本的に信念を持たず、常に反対のための反対をすることを自己のアイデンティティーとしているためである。

しかし歴史的にはそうでない活動家もいたことはいた。それが許される行為かどうかはさておき、かつては信念を持って行動していた左翼テロリストもいなかったわけではない。結果的に行なった暗殺などの犯罪行為は許されなくとも、その純粋な精神性は裁判官や検事からも一目置かれたテロリストは19世紀までは結構いた。

それはある意味、階級社会だったからこそ成り立った構図とも言える。階級社会では有責任階級と無責任階級がハッキリ分かれている。その分責任あるリーダーシップが求められ、肚を括って決断するリーダーがいた時代だったからこそ、それに対峙するようなカタチで命を賭けて闘うテロリストがいたということになる。

大衆社会の到来とともに、腑抜けた秀才エリートがリーダーの椅子に座るようになって、自ら肚を括ってリーダーシップを取るリーダーは極めて少なくなった。「敵」が小粒になれば、反権力も小粒にならざるを得ず、単なる「反対のための反対」「ゴネ得狙い」に終始するようになった。反体制が哲学になるのか、単なるワガママに終わるのかの境目はここにある。

信念を持って命がけで行動すれば、それなりに世の中は動くものである。アーティストの世界では、まだまだそういうカウンターカルチャー的パワーも持った作品を作る人もいる。それは個人対社会という構図だからだ。権力者対活動家ではどちらも根性無しになってママゴト遊びに終始せざるを得ない。

しかし時代は集団競技中心の産業社会から個人競技中心の情報社会へと移行した。この時代は、再び信念を持ち肚を括って責任を取れる人間しか世の中をリードしてゆくことができない。体制・反体制という二元論ではないが、信念のぶつかり合いの中からしか新しいものは生まれてこない世の中になる。今、もう一度信念の重要性を噛み締める時が来ている。


(24/08/16)

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