天才と秀才の脳の使い方
天才と秀才の脳の使い方には大きな違いがある。これは歴然とした事実なのだが、あまり真剣に語られたことがない。それは、そもそもその違いは天才の方からしか明確に捉えることができないものである上に、天才の脳の使い方は必ずしも意識的にスイッチを入れてフル回転させるものではなく、自分の意思とは関係なく何かが降ってきて「スイッチが入る」ものだからである。
天才は秀才のように「頑張るぞ」と気合を入れて意図的にアクセルを踏むのではない。どこからか憑き物が湧いてきてトップスピードで脳が回転してしまうのだ。だから、後から「ふぅ、頑張ったわい」と気が付くしかない。でもそれは終わったことなので、どれだけ頑張ってどれだけ疲れたかなどをわざわざ考えることもない。反応は、「じゃ、一眠りするか」が席の山である。
これはそもそも天才と秀才のものの考え方の違いに基づいている。秀才がものを考える時は、現状を起点としフォア・キャスティングの積み上げ型でゴールの完成形へと一歩一歩進めてまとめて行く。行っているのは演繹的かつステップバイステップの処理である。時間もかかるので全体としてはそれなりに負荷はかかるが、タイムラプス的な負荷は比較的リニアで一定である。
天才がものを考える時は、完成形がいきなり頭の中に湧いてくる。このためそれを実現するためのプロセスをバック・キャスティングで組み立て現場に繋げる形で発送する。完成形が見えている分、その要素を実現するための相互に関連するタスクを並行的かつ整合性をとって構築する必要がある。このためには色々なことをコンカレントに考えなくてはならない。
さらにこういう行列的な関係性は、それぞれタスクの結果によりその先のロジックの組み方も変わってくるため、整合性を担保するにな高次元なマトリックス的処理が必要となる。これを同時並行的に処理しなくてはならないので、一瞬に爆発的な負荷がかかる。マトリックス的ゆえ、全体の処理は比較的短時間で済むが、その情報処理量は膨大なものとなる。
その分何かを真剣に発想する時には、脳は激しくエネルギーを消費する。脳のエネルギー源はブドウ糖である。大量のブドウ糖を消費するので、体内の糖質はものスゴく減少する。運動時の筋肉での消費どころではない。計算式のテストを解いても腹は減らないが、新しい何かをクリエイトするときはめちゃくちゃ腹が減る。これを実感したことがある人は、天才に近いと言える。
実はこの脳の使い方の違いこそが、AIの使い所を示している。AIといえどもノイマン型のコンピュータ上で処理している以上、ステップバイステップの演繹的処理は脅威的に強いが、マトリックス的なコンカレント処理には限界がある。だからこそ、秀才は簡単にAIで置き換えられるが、天才の脳には現状のコンピュータの原理を使う限り勝てない。
70年代末のマイコン革命の真っ只中から、我々は「コンピュータは、コンピュータの上に人をつくり、コンピュータの下に人をつくる」と語りリアルタイムでこれを主張してきた。爾来半世紀、情報社会の到来とともにこれが普遍的なテーゼとして社会的な認知を受けるようになってきた。努力や勉強からは生まれない「天才」こそ、情報社会の救世主なのだ。敬え。
(24/08/23)
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