マーケティングの「心」
経済学や経営学は、学問の中ではかなり際どい「端っコ」に位置付けられるものではあるものの、ノーベル経済学賞があるように一応アカデミックな学問として社会的に認知されている。そのためには、理論的整合性・体系性が重要になる。違う時に違う人が同じ課題について検証しても、同じ結論が得られるだけの論理性と一貫性があることが、学問として成り立つための基本的な条件となっているからだ。
このためには問題に答えを出す場合、その答えは、過去の理論や研究の成果から演繹的に抽出したものであることが求められる。これが理論的整合性・体系性を担保することになる。思い付きやヒラメキから生まれた答えでは、いくらその答えが結果的に正解であったとしても、第三者がそれを再現することは不可能だし、ましてやブラックボックスから生まれたものだけに検証も不可能である。
しかしアカデミズムをアカデミズムたらしめてきたこの基本要件こそが、学問を白い巨塔の中に押し込め、一般社会とは隔絶した「役に立たない」ものとしてしまっている。いわゆる「摩擦=0の物理学の実用性」の問題である。理論的な正しさからは必ずしも現実に通用する解は出てこない。その一方で問題解決のためには、いわゆる「現場の知恵」的なものが最も役に立つことが多い。
実際のビジネスシーンでは、「カイゼン」ではないがこの「現場の知恵」を創発的に積み上げたものが、事業のボトルネック解消の上では大きな力になる。年功序列・終身雇用の日本型雇用はデメリットの方が多いが、もしプラスになった要素があったとしたならば、「現場の知恵」が属人化したまま組織の中に残っていた点だろう。これを意図したわけではないが、まさに創発的なメリットになっていたわけだ。
形式知化・マニュアル化が不得意な極めて不得意な日本の組織において、過去の事業における経験値やノウハウが曲がりなりにも受け継がれたのは、日本型雇用が結果オーライだった唯一の点だろう。金融機関でまだ使われている前世紀の遺物である大型コンピュータシステムを維持するために、定年後のシニアプログラマをかき集めて対処する話などは、まさにこの典型的な事例である。
この矛盾が最も深く現れるのが、経営学の一部としての「マーケティング」であろう。MBAで論じられるマーケティングは、現場で第一線のマーケティングに携わっている人からすれば笑止千万。もちろん、人事や総務のような事務管理部門にいた人がマーケティング部門に移動する時に、その基本を学ぶという意味では体系化された「マーケティング学」は充分役に立つものであることは間違いない。
しかしそれを学んだからといって、マーケティング・プランニングができるかというと、それはそう簡単な話ではない。それはマーケティングの本質が、ターゲットの心を掴むことにあるからだ。お客様の本心は往々にして潜在意識の中にあり、調査したからといって引き出せるものではない。色々な傍証から詰めていって本質に迫る、プロファイリングのような作業が必要になる。
とてつもない作業になりそうだが、マーケティングはビジネスであって学問ではない。方法はどうあれ実利がある答えが得られることが重要だのだ。答えを求めることが目的ではない。お客さん・生活者といったターゲットの気持ちになって答えを考えらればそれでいい。思いつきでもヒラメキでも、売れる商品・サービスが生み出せれば成功なのだ。これがマーケティングの原点。ここを履き違えてはいけない。
(24/09/06)
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