順位にコダわる人
何かにつけて「順位」を気にするヤツ、それは中身のないヤツである証だ。自分を持っていれば、そもそも他人と比べようとは思わない。モノマネで生きているのなら、どっちがより似ているのか比較されるのは当たり前だ。しかし、自分のオリジナリティー勝負で生きているのなら、比較のしようがない。その個性を認めるか認めないかだけで、順位はつかない。
「ナンバーワンよりオンリーワン」という唄があったが、それが成り立つのは自分という中身を持っている場合のみである。自分自身が勉強と努力で身に付けた「借り物の能力」しかない場合は、そもそもオンリーワンたりえない。しかし世の中には中身を持っている人の方が圧倒的に少なく、借り物の能力だけで身を固めた人が過半数である。
そして中身を持っていない人にとっては、「中身を持つ」とはどういうことなのか永遠に理解することはできない。そもそもそういう人が持っていない軸が「中身」なのであり、二次元平面の図形と三次元空間の物体のように軸が多い分「異質」の存在ということができる。これではそもそも比較の対象とすることすらできない。
よって中身を持っている人間は、自分自身としてはオンリーワンを目指し、中身を持っていない人間が、必死に自分の居場所を確認しようとナンバーワンを目指すことになる。しかしナンバーワンになれるのは大勢の中で一人だけ。オール・オア・ナッシングになってしまうので、必然的にナンバーワンに向かう一つの軸の中での順位を競うことになる。
だが、図面の三面図のように、三次元の物体を二次元空間へ投影することは可能だ。全ての情報を二次元で表すことは不可能としても、なんらかの図形は表示できる。まさに「中身のない」人が「中身を持つ」人を見たときに見える姿がこれである。テストの点数などが典型的であろう。これにより表面的な比較ができてしまう。
アートでも音楽でもそうだが、表現芸術には心象内に湧き起こる強烈なイメージと、それを具体的に第三者にも伝わるアウトプットにする技術との両面が必要である。「湧き起こるイメージ」はまさに「中身」そのものであって、第三者からは知る由もない。一方技術は努力や修行によって習得可能である。
よって投影図のように誰にでもわかる「技術」のレベルでは、「中身のない」人と「中身を持つ」人がリニアに比較可能になってしまう。こうなると、実際のランキングでは必死に勉強・努力した「中身のない人」よりも「中身を持つ人」の方がランキング上位にノミネートされてしまうこともしばしば起きる。
現実に学校のテストなどでは、必死に真面目に勉強した人(死語で言えば「ガリ勉」だな)よりも、地頭に優れた要領のいいヤツが何も準備しなくてもいい点を取ってしまうことがよく見られた。まさにこういう現象が頻発するのである。もちろん地頭力を問うようなテストを作ることもできるが、それが出てくるのは大学以上(一部の私立の附属高校は除く)である。
とはいえ多くの場合は、必死に頑張った「中身のない人」の方が成績上位を取ることの方が多い。これは高校までの一般の学科のテストというのは指導すべき内容が決まっており、それに即した問題が出る以上過去問でみっちりトレーニングして解き方を覚えた人の方が間違いなく良い点をとる確率が高くなるからである。
ここでもまた、手段と目的の入れ替わりが起こる。そもそもどれだけ学習したかをみる手段としてテストがあるのだが、テストで良い点を取ることが目的化し、テストの点数をあげるために勉強するのが当然のように起こる。だからこそ、点数すなわち順位自体が目的となり、それだけが唯一無二の価値感の規準となってしまうのだ。
こうみてゆけばもうわかるだろう。情報社会・AIの時代においては、順位を気にする人は役に立たないのだ。AIと比べれば勉強においてはNo.1を取ることは不可能だ。もはやそのランキングは人間として意味がない。この期に及んでまだ順位や点数を気にしている人こそ、本当にAIに取って替わられるべき存在なのだ。
(24/09/20)
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