キャズムはニッポン由来





実はキャズムの発生地は日本だった。一般的には社会の情報化が進んだ90年代になって、流行に関する情報の流通が大きく変わることにより、先進国においてグローバルかつ同時代的にキャズムが発生したといわれている。しかし1970年代後半に起こった日本における流行の伝播の変化を見てゆくと、そこにキャズムの萌芽を見てとることができる。

キャズムの本質は「横から目線」にある。すなわちその特徴はボトムアップによる流行だ。「隣のアイツがやってるから、ボクもワタシも」で流行が広まるようになったのがキャズムが起こった原因だ。かつては「蜘蛛の糸」よろしく人々は機会あらば這い上がろうと常に上を見ていた。この上昇志向が社会の原動力となったのは大衆社会の特徴だ。

ジンメルの「流行論」以来の、「人気のスターがやっているから、ボクもワタシも」というような、「上から目線」と「下から憧れ」が結合した、水が重力で高きから低きへ流れるような「標高差に基づくの伝搬」が流行の基本とされた。これこそ、産業社会と不可分の関係にある大衆社会における人々の意識や行動の特徴とされたものだ。

「キャズム」が重視されたのは、これとは似て非なるモチベーションにより引き起こされる「流行」が社会的に認識されるようになったからだ。このルーツは、実は70年代後半の日本で女性ファッション誌がターゲットセグメント別に乱立し、従来のような取材・編集方法では細かいセグメントに対応した誌面作りができなくなったことに求められる。

その中から、苦肉の策として主として低年齢層向けのファッション誌から、ストリートでの着こなしの良い素人を取材するという編集手法が始まった。そしてその中から、誌面に何度も登場することで読者達の注目を集め人気を呼ぶようになった「読者モデル」が生まれてきた。読者からすれば「読者モデル」への目線は「下からの憧れ」ではない。

同時に「読者モデル」も素人として取材されている間は、単に自分の好きなコーデを着こなしているだけで、当人もこれ見よがしの「上から目線」ではない。上から目線からでない発信者と、下からの憧れでない模倣者の間での共鳴。これが読者モデルがブームになった真実だ。そこにはキャズム以降の流行の特徴である「横から目線」を見て取れる。

最初は編集サイドの苦肉の策であったかもしれないが、作る側のお仕着せとして「これが流行だぞ」と見せつけてゆくのではなく、センスのあるコーデで着こなしている素人をストリートで取材し、それを最先端のトレンドファッションとして取り上げることで、横から目線で広げてゆくのが読者モデルファッション誌の正体である。

まさにそれが革命の始まりだったと言える。70年代後半の日本はコミケが生まれ、21世紀にはメインストリームとなるマニアックなサブカルコンテンツが産声を上げた時代である。この手のオタク文化こそ、横から目線で広がってゆく流行の典型である。オタク文化、日本的サブカルの世界的ブームも、この視点から見なくては理解できないだろう。

思えば、世界で最初に裕福な市民層が文化の担い手となったのは17世紀の日本、あの「元禄時代」だ。ヨーロッパでは産業革命以降に発展した富裕市民層が新たな文化の担い手となってはじめて、近代的なライフスタイルが生まれた。ここには1世紀以上のタイムラグがある。まさに市民文化の元祖は日本の元禄時代なのだ。

西欧での市民文化が開花しだすと、おのずとその中で市民文化の先輩たる日本の文化が着目されるようになる。これがジャポニズムのブームを生み出す。ブルーノ・タウトが桂離宮を称えたように、日本文化の持つシンプルでミニマルなスタイルが広く支持を受け、20世紀に入ってモダニズムを生み出す原動力となったことも知られれている。

歴史は繰り返す。まさに市民文化の変革は、日本から始まり欧米に影響を与えて広がるのだ。キャズムの「横から目線」も、70年代末からの日本のボトムアップの若者ストリート文化が生み出したポップカルチャーの伝播そのものだ。当時は携帯もインターネットもなかったが、口コミの伝わる速度は異常に速かった。

私は渋谷から2駅の高校に通っていたが、72年のことだが渋谷西武のB館地下一階のビーインにジョン・レノンがいたというのは、2時間で耳にした。そのくらい口コミの伝搬速度は速かったのだ。それで広まった原始キャズム。インバウンド観光客のかなりの部分がオタク系というのも、意味ないことではないのだ。


(24/09/27)

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