考える力
情報社会においては、求められる情報のあり方は、ノイズも加工もない一次情報が基本になる。それは情報社会とは、誰でも容易に一次情報にアクセスできる環境にあるところが特徴となっているからだ。そういう環境だからこそ、容易に入手した一次情報を元に自分で自己責任で判断するという情報のハンドリングが、情報社会を生きてゆく上でのベースとなる。
もちろん情報社会においても意見や価値観の入った二次情報があってもいいが、それは情報としては一次情報より価値が低い。どちらかというと文芸作品のような、エンタメ的付加価値性が存在意義となるコンテンツとみなされる。それは、情報の質よりも付加価値部分の面白さや楽しさで評価されることになる。すなわち社会的に不可欠な情報は、基本的には一次情報だけなのが情報社会だ。
20世紀においてもジャーナリズムには二つの役割があった。一次情報をそのまま伝えるのが身上の通信社的なジャーナリズムと、ニュース解説・論評的な二次情報を伝えるマスコミ的なジャーナリズムとがあって、うまく住み分けていた。この内後者は、情報社会においては報道メディアとしての存在意義を失うことになる。これが新聞の衰退をもたらした。
一方前者も、オウンドメディアによる直接発信に取って代わられることになる。いかに「生の情報を加工せずにお届けしています」といったところで、当人が自分で語っていることのリアルさには叶わない。魚でも野菜でも、どんなに産地直送を謳っても、産地で取れたてを手に入れた方が新鮮なのと同じだ。生のリリースが誰でも手に入るのなら、リリースの転送は要らなくなる。
さていかに一次情報が手軽かつふんだんに手に入るようになっても、それを元に誰もが自分なりの判断ができるというわけではない。それはそもそも「自分なりの判断」そのものが苦手な人がいるからだ。自分でモノが考えられない人、答えを教えてもらわなくては解決できない人だ。その理由を考えると、知的作業が不得意だから判断ができないというわけでもない人も結構いる。
いや実は、テストで高い点数を秀才の中には、かなりこういう「自分なりの判断」ができないタイプは多い。結果を記憶する勉強だけでもいい点は取れる。というか、その方が安定的にいい点は取りやすい。だからこそ、自分で考えずに過去問を覚えて反射的に答えが出てくるようにしているから偏差値が非常に高いということもできる。
情報社会においては自分で判断できない人間は、AIの判断に従うしかない。いわゆる「コンピュータに使われる人間」だ。それはそれで幸せだし、無責任に生きられるのだからそれでいいだろう。それにAIは初期投資以外は電気代と運用コストだけで動くので高い給料は必要ないから、「コンピュータに使われる人」にも分配は増えてくる。これなら心配ないではないか。
しかし、これにより必要なくなる人達がいる。いわゆる秀才エリートだ。AI技術が進んでいなかったので、人海作業でその真似をしていただけの人間である。所詮は、生産力と情報処理力に落差があった産業社会に咲いた徒花だ。それが厚遇されていたことがおかしいのだ。AI並みのコストで働いてくれるなら居場所はあるが、その才能では今までのような処遇は無理だ。
それをベースに跋扈していた官僚とかアカデミズムとかマスコミとか既存の権力は無力化する。なんのことはない、彼らは何も知恵を出していなかった裸の王様だったことがバレただけのことだ。今まで有り難かっていた人が騙されていたのだ。もう通用しない。自分なりの腹を括った判断をして、合理性だけでないソリューションを出せる人間こそ情報社会では厚遇されるべきなのだ。
(24/10/18)
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