振り分け
1990年代に「キャズム」が唱えられて以来、「上から目線」は垂涎の対象から嫌悪の対象となり、極めてフラットな「横から目線」が通じる仲間だけで閉じたクラスタを作り、人々はその中に居場所を見つけるようになった。それは右肩上がりの産業社会における特徴ともいえる「成り上がり願望」は過去のものとなったことを意味する。それとともに産業社会の特徴ともいえる「見栄や背伸び」は影を潜めた。
そして見栄や背伸びをやめてしまった時点で、人間は明らかに「秀でた人」と「普通の人」二層にくっきりと分かれてしまった。いや実態としては最初から分かれており、産業社会の段階においてもその違いが歴然とあった。しかし産業社会特有の、誰しもが「成り上がりの横並び」を狙うプロセスの中で隠蔽され「無いもの」とされてきた。それが社会構造の変化とともに顕在化してきたというべきだろうか。
すなわち、あるがままの自分を見られても恥ずかしくもなんともないし、それに自信を持って生きられるようになったということだ。確かに産業社会においては、「成り上がり願望」が社会・経済を推進する原動力の一つになっていたことは否定できない。が、その裏で他人の目を気にしすぎて自分らしく生きられないという弊害も大きかった。そこから自由になれるということは個人の人生にとってはいいことだろう。
21世紀的な情報社会が20世紀的な産業社会と根本的に異なるのはその点だ。スマホやインターネットの普及で便利になった点は誰が見ても目立つのでわかりやすいが、それはそれまでにもあったある種の社会的インフラ機能を「ウマい・安い・早い」の吉野家効果で代替しただけである。社会への構造変化という面では、この「タテの流れから、ヨコの流れへ」というパラダイムシフトの方が桁外れに大きい。
ここですでに何度も論じてきた論点である「コンピュータの上と下」も「肚を括って責任が取れるかどうか」も、実は同じ変化を違う視点から捉えたものだ。情報社会の根幹を成すコンピュータ・ネットワークを基準にとらえれば、二層は「コンピュータの上と下」と捉えられる。一方二層に分かれた人間の特性の差異を基準にすれば「肚を括って責任が取れるかどうか」となる。
産業社会と違って情報社会において重要な点は、この二層は価値観の違いもしくは生き方の違いではあるものの、上下とか高低とかいったリニア軸上の評価の違いではない点だ。違うから違うのであって、何かが足りないとか、何かが勝っているかとか、そういう単純な比較ではない。上下関係や点数評価では無いのだ。ここが産業社会的発想にハマり切った人には理解しにくい点だろう。
情報社会への変化の中で多くの人が不安を感じているのが、この点であると思われる。しかしパラダイムシフトというのはそういうものなのだ。それまでの常識では理解したり受け入れたりすることが難しいスキームに世の中が変化する。情報社会化というのは、産業革命以来200年続いてきた現代社会の基本構造が変化することを意味する。それほどの変化を簡単に受け入れろと言っても難しいだろう。
とはいえ、人間というのは極めて適応力が高い。だからこそ地球上の動物の中で唯一、文明を花開かさせることができたのだ。産業革命においても、当初ラッダイト運動のような反発があったものの、いつの間には上手に産業社会の理を受け入れ我がものとして繁栄を享受してきた。情報社会でも同じである。産業社会に浸り切った人間が対応に苦しんでいるだけで、世の中の主体が「ニュータイプ」になれば、自ずとその成果を享受するようになれる。それが人類だ。
(24/10/25)
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