AIは情弱を救う
情弱というのは、別に差別用語でも卑下した言葉でもない。情弱であってはいけないわけではないし、21世紀的な価値観からすると、他人の言っていることにどう向き合うかという違いでしかない。それが価値観を持ってしまったのは、どちらかというと目糞鼻糞のような、ブービー争いから生まれた相手をコケ下す表現として使われがちだからである。
どちらにしろ自分の意見を持てない人たちが、誰かの軍門に下ってその庇護の下に生きたいと思っても、アプリオリに「そうでございます」と受け入れるか、表面ヅラだけ「自分の意見と一緒だ」と言って受け入れるかだけの違いでしかない。産業社会的に見栄を張って背伸びしたい人が、同じ穴の狢を「俺は違うのだ」とばかりに足蹴にしようとしていただけなのだ。
この両者の本質は敵対的ではなく、どちらも「自分の足で立って、腹を括って責任をとって、やりたいことをやると勇気を持っていない人」というだけのことである。誰か強い人にすがって、その家来として生きていく方が楽だし、そうしたいと願っている人達だ。それは決して悪いことではないし、そういう志向の人の方が多いことは間違いない。社会はそれで成り立っている。
そう考えれると、そういう「すがり志向」の人達は原人の集団生活の頃からいたと思うし、文化人類学や類人猿の研究を見ても、霊長類の集団の特徴の一つとも言えるだろう。特に進んでいるニホンザルの研究でも、どうやってボスザルが生まれ、それに付き従うオスザルがヒエラルヒーを作るのかは、古くから研究の主題とされ数々の研究成果を産んでいる。
原人から現生人類に進化する間において、ウェルニッケ領野の発達により観念的な言語機能が発達したことにより、集団で情報を共有し役割分担をして生活することによって、それまでの野生生物では成し得なかった自然界での生存力を獲得した。霊長類特有のヒエラルヒーをさらに強化した、組織化の極意を会得したのである。これが人類の誕生ともいえる。
人間社会の「組織」という面が最も強調されたのは、長い人類の歴史の中でも産業革命以降であろう。産業社会においては、人間は拡大する生産を担う「労働力」としての存在感が大きかった。このため、質的な面はあまり問われることなく、「頭数」に代表されるように量的に把握され評価されていた。まさに組織が「狭義のスケールメリット」を追求しまくる時代だった。
大衆社会のメルクマールといえる、誰でも一人一票の普通選挙制などは、そのスキームを代表するモノだろう。質は問わず、数こそ力なりという時代にふさわしい政治形態だ。こういう社会においては、自分で考えることが苦手で「言われたことをきちんとこなす」ことが得意な人間が重用される。まさに「すがり志向」の人達の強みが、スケールメリットとして発揮されたのだ。
産業社会も高度化するとともに、労働力を機械が代替する部分がどんどん増してゆき、必ずしも「頭数」の問題ではなくなってきた。チャップリンの「モダンタイムス」のように、ラインに工員が並んで張り付く工場の姿は20世紀前半まで。工場といえども無人のラインが次々と製品を生み出してくるのが当たり前となり、要員はオペレーションとメンテナンスだけで済むようになった。
ここまでが20世紀後半の先進国の状況である。そして21世紀の情報社会に至って、そのスキームが崩れだす。最後の砦であった事務管理部門のホワイトカラーも、人海戦術ではなくコンピュータが自ら判断し処理してくれるようになった。ここに至って、頭数のスケールメリットは全く意味をなさなくなり、大規模な組織はビジネスには必要なくなった。
しかし、人間の全員が質を問われるわけではない。コンピュータやネットワークが苦手とする部分では、その手足となる人間が不可欠である。あるいは、技術的には可能でも全部機械化することでかえってコストアップになってしまう領域もある。そういうところこそ、「すがり志向」の人達の出番である。しかし、すがる相手が今度はコンピュータシステムになるのだ。
いつも言っているように、ホワイトカラーが高給を取っていたことが間違いなのだ。その点コンピュータシステムは電気代やメンテナンスコストだけで答えを出してくれる。それは人件費より圧倒的に安いし、だからこそ情報化が進むわけだ。その分をエッセンシャルワークをしている人たちに回せば、利益構造変わらない。これが理解できなくては、情報社会における経営は無理だぞ。
(24/11/08)
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