文化的格差
格差社会とか言われるようになって久しいが、世の中で「格差」が議論に上る時そこで問題になるのはほとんどの場合年収の格差である。年収格差は確かに見えやすいし、その御利益もわかりやすい。だから妬みも含めて「なんで俺の懐は寒いんだ」とばかりに世の中のせいにしやすいし、貰えるものなら自分も欲しいと思う分、支持も得やすい。
金銭的な格差ということに限っても、実は決して年収格差だけではない。資産の格差もあるだろう。年収は同レベルでも家族構成や生活環境により子沢山と独身貴族のように可処分所得の格差というのもある。しかし、こういう面での「格差」が真剣に議論される場面にはあまり出くわさない。関心がない人が多いと言ってもいいだろう。
要はバラ撒き期待なのだ。年収は基本的には自分の達成した成果を反映する。高度成長期は何もしなくても企業は収益を確保できたし、ましてや売上は重視しても利益という概念がない時代だ。何も仕事をしていないお気楽社員にもそれなりにリターンがあった。しかしそれは昭和の昔話。今そんなことをしたら企業は即潰れてしまう。
まあ、そんな時代錯誤の思い込みに基づく「年収格差」ではなく、もっと深刻で重大な格差が日本の中で拡大していることに気付く必要がある。それは育った環境に基づく「背負っている文化」の格差だ。文化というのは、親から子へ、子から孫へと代々受け継がれてゆく中から熟成し引き継がれていくものだ。
日本の場合、戦後の経済破綻で貧しい中から高度成長で復興してゆく間に、それまでの江戸時代以来の伝統的な文化の流れは断たれ、農村型経済から都市型経済へ、大家族から核家族へと大きく変化する。そのエポックとなったのが、64年の東京オリンピックから70年の大阪万博の間の時期である。それ以降が現代日本の生活文化のスタートである。
その新しいライフスタイルも、今や団塊孫世代が社会人になるようになって、三代目の世代に入った。新しい家制度の下で築かれた各家族のスタイルも、家ごとの特色がはっきりと刻み込まれるようになった。そして刻み込まれるカラーの中には文化もある。まさに、それぞれ家族の持つの文化が次の世代受け継がれてゆくようになった。
すなわち日本においてもミームの再生産が行われ、文化として引き継がれていく基盤ができたのだ。しかし、この背負っている文化が家族によりあまりにも違うのだ。文化性が豊かな環境で育ったのか、貧しい環境で育ったのか。その格差は経済的格差より深刻であるとともに、再生産のたびに谷間は深く厳しくなる。
お金では測れない、背負っているソフト的なものが異なる人達。質的に全く違う人々が、定量的な面では同じ一人の国民として息づいているのが21世紀の日本なのだ。いわば質的に深い文化を持った日本人と、浅い文化しか持たない日本人という、いわば別の民族が並んで共存しているのだ。
良識ある人からすると、闇バイトにハマって犯罪を犯す人や、れいわ新選組の支持者などは理解の外である。なぜそういう行動をするのか、ちょっと考えればあり得ないと思う。しかし、それを考えない人が存在するし、行動してしまう人がいる。そのどの人にも一国民としての権利があるのが21世紀の日本なのだ。
これは別に良い悪いの問題ではない。自分の生き方は自分で選ぶ権利があるし、他人の権利を侵害しなければ行動の自由も保障されている。基本的人権の「思想信条の自由」である。ただ、かつてのように「みんな同じ」ではないことを一人一人が自覚して行動しないととんでもないことになることだけは確かだ。
多人種・多文化のアメリカでは、相手を「違う人」とみなすことから人間関係を築く。それはそれで上手くいく。しかし「どうせ同じ穴のムジナだからわかってくれるだろう」と相手に甘えるところから入るのが、かつての日本の人間関係だった。しかしそれはもう終わった。相手とは文化的格差があるかもしれない。それを肝に銘じて人間関係を築く必要があるのだ。
(24/11/15)
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