自己責任の意味
最近の日本人の多くが勘違いしているような感じだが、そもそも「自己責任」というのは責任を取れる人のみに許される行動である。グローバル化が進み、リーダーシップとは責任を取ることが当たり前という欧米的な考え方が日本にも広まってきた。しかし言葉だけが先行して広まる一方、その本質である「責任を取る」という意識はいまだに曖昧なままである。
「自己責任」の行動というのは進んで責任を取ることを前提にしている。だからこそ責任を取れないし、肚を括った決断ができない人は、自己責任の行動はできない。ところが責任を取るということ自体がどういうことなのかをわかっていない人が、日本人においては過半数なのだ。これでは自己責任と口に出しても、結果自分では責任を負えないという事態にならざるを得ない。
なぜ日本人の多くが責任を感じることができないのだろうか。それはそもそも失う可能性のあるリソースを持っている人でないと、責任を取ることの意味を理解できないからだ。そういう意味では、元々価値のあるリソースを持っていない人が多数を占める日本の現状では、多くの人が責任を感じることができず、真の意味の自己責任とは何かをわかることは構造的にできないことになる。
やはり同じようにグローバルスタンダードが言葉だけ移入され、換骨奪胎されてしまったものに「成果主義」がある。成果主義が機能するには、成果を客観的かつ定量的に評価することが大前提となる。このためには、そういう「人を見る目」を持った人材を人材マネジメントを行うポジションに付け、公正な評価ができる組織になっていることが大前提となる。
だが日本的年功序列経営の会社では、自分が成果を上げたこともなく、ましてや成果をどう客観的に評価するかという能力もないマネージャーしかいない。だからこそ成果主義を取り入れようと思っても、客観的な成果そのものを把握できない。結果的に評価は人間関係の好き嫌いで終わってしまい、評価システムとしては全く機能しないことになる。あるいは定量評価に偏り過ぎて、偽装した売上でも高く評価されてしまうのが関の山だ。
いくら言葉だけ取り入れて真似しても、その精神の部分をおざなりににしてしまったら、その制度は全く機能しない。それと同じように、責任を取ることの意味がわからない人が多い中で自己責任という言葉だけが蔓延し、逆に責任逃れの方便となってしまった。責任が取れない人に自己責任を押し付けても、わがままを言って無責任に逃げまくるしかないからだ。
このズレから、無責任な人たちが他責で行動し自分の責任を負わないことを「自己責任」と称するようになってしまった。もちろん欧米にも「甘え・無責任」な人はいる。そういう人達は自己責任では行動できないし、自分でも自己責任とは言わない。本来とは正反対の意味なのだが、甘え・無責任の人達が多数派の日本は民主主義の国であるがゆえに、数によってそれが正当化されてしまうようになった。
まあ、甘え・無責任な人が思い上がって勝手な行動を「自己責任」と称してやったところで、責任は取れないんだからいつかは逃げきれずツケは来る。ろくに登山ができない人が軽装で登山して遭難するようなものだ。だがこれをやられると周りは大迷惑。生還したところで結局本人が責任を取らさせることになるし、本人が死んでしまってもそれはそれで捜索隊の請求書が遺族に届いて死後も周りは苦労する。
最近のSNSの荒れ方なども、実はこの無責任さが原因となっている。しかしどんなに逃げ回ったところで、最後に必ず責任はやってくるのだ。その事実がだんだん理解されてくれば、「自己責任」と称することの怖さも認識されるだろう。そうなれば甘え・無責任な人には「危きに近寄らず」とばかりに抑止効果が生まれる。これもまた、21世紀型の情報社会への移行が定着するまでの一悶着というところだろうか。
(24/11/22)
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