SNS効果
選挙や政治におけるSNSの影響が語られることが多くなった。が、そのほとんどが我田引水の解釈に終わっている。自分に都合の良い結果が出た人は「SNS万歳、これこそ民主主義」と絶賛する一方、自分に都合の悪い結果が出た人は「SNSに騙された人がいるから規制すべきだ」と否定する。それはポストキャズム時代ならではのインタラクティブメディアによる輿論の形成が、レガシーメディアの人達にはよくわかっていないからだ。
受け身でSNSの情報を受け取る人も確かに多いが、自分の価値観で取捨選択して選び取る人もそこそこいる。ある種、ウソとホントを「嗅ぎ分ける」リテラシーを持っている人たちだ。こちらの方がマイノリティーではあるものの、キャスティングヴォートを握る存在感を持ってきている。それは「受け身」のマジョリティーの人たちも横から目線でその動向を気にしているからだ。
ネット上では同じような展開になっても、炎上する時とあっさり沈静化してしまう時がある。この時に全体の流れを決めるのが、このキャスティングヴォートを握る人たちだ。受け身の人は基本は「どっち付かず」なのだが、全体の形勢がハッキリすると一気に勝ち馬に乗ろうとする傾向がある。多数派ではないものの、この分水嶺のところでキャスティングヴォートを握る人たちがどちらにつくかによって全体の流れが決まるのだ。
レガシーメディアは基本的に自分の都合がいいように世論誘導するのが習性だ(そもそも日本の新聞は明治期の「自由民権運動」という政治運動の機関紙にそのルーツがあるのだから、「プロパガンダで固めて当たり前」という気風が受け継がれていても不思議ではない)。インタラクティブメディアでも「活動家」のアジテーションは掃いて捨てるほど溢れている。そこでレガシーメディアの人達はそのメカニズムを同一視しがちだ。
兵庫知事選での齋藤知事再選までの流れと、東京都知事選での石丸候補のブームとを混同した論調は、特に既存のマスメディアにおいては多くみられる。が、それはことの本質を全く見誤っている。これこそ、そもそも本質を理解することができないのか、あるいは自分に都合のいいように我田引水でこじつけているかのどちらかである。フェイクニュースかプロパガンダか。いずれにしろ、ジャーナリズムたりうる原点を踏み外している。
SNS上の情報を活用してキャスティングヴォートを握る層の行動に着目すると、この両候補への支持の動きは構造的に正反対のものであることがわかる。いや、この違いがわかるかわからないか自体が、情報社会の理を理解しているかどうかといってもいい。レガシーメディアはここが全く理解できないし、理解しようともしない。それ以上に自分達と同じような存在として見がちなのだ。
石丸候補は基本的に既存ジャーナリズムやレガシーメディアが、昔ながらの「無党派層でブーム」として煽ることで知名度を上げた。支持層は既存メディアの視聴者だ。ウソとホントを「嗅ぎ分ける」リテラシーを持っている人たちは、石丸候補がマスメディアによって作られた「張子の虎」であることを見抜き、既存利権の維持拡大を狙う層から神輿として担がれていることを暴いた。これにより当選ラインは遠ざかっていった。
その一方で、齋藤知事は既得利権層と結びついたマスメディアによって貼られたレッテルや着せられた汚名により辞職を余儀なくされた。しかしSNS上の集合知が、それら一つ一つを事実無根と証明し切り崩してゆくことで、じわじわと支持を集め当選に至った。キャスティングヴォートを握る層は、石丸候補ではアンチ、齋藤知事では支持と明確なスタンスで対応し、それぞれ結果を出したのだ。
既存メディアは産業社会的な上から目線。しかしインタラクティブメディアは情報社会的な横から目線。横から目線の人にとっては「目の敵」として上から目線を捉えることができるが、上から目線の人たちはインタラクティブメディアも上から目線的な影響力があるものとして捉えてしまうのだ。ここが見抜けているかいないかで、これからの情報社会化して21世紀を渡っていけるかどうかが決まる。これこそある種の踏み絵と言えるだろう。
(24/12/06)
(c)2024 FUJII Yoshihiko よろず表現屋
「Essay & Diary」にもどる
「Contents Index」にもどる
はじめにもどる