反省出来ない人達
自分の間違いを素直に反省できるかどうか。それは誰にでもできることではない。反省ができる人は、たとえ失敗したとしてもその失敗を糧として反省し、次からはそのような過ちを犯さない一回り大きな自分を築くことができる。その一方で反省ができない人は、何度も同じ間違いを繰り返し、前に進むことができず決して昨日の自分を越えることができない。そしてその差はどんどん大きく開いてゆく。
そもそも人間は反省できる生物であったからこそ、進歩することができたし、地球上でも類まれな文明を築くことができた。反省できる人間は次々と成功を手に収め新しいステージに進むことができる。このように反省は人間が進歩する上で最も重要な踏み絵である。反省できなかった人も、次には反省ができる人が得たノウハウを勉強して享受することは可能だからこそ、その分け前に預かることができた。
反省ができるということは、今の言葉で言うならば、すなわちPDCAサイクルが回っているかと言うことだ。行動に対する結果がどんなものであってもひとまず受け入れ、それを客観的に評価する。うまくいっている部分は受け継ぎ、問題のあった部分は次からは改善する。まさに反省とは結果を全て未来の糧として活かしてゆくことなのだ。だからこそ、反省こそ成功の母ということができる。
さてコロナ禍以来の数年で分かったことに、左翼・リベラルは反省ができない人達だということがある。そもそも自分は無謬と思い込んでいるので、自分の悪いところを直すことができない。誰の目から見ても間違っているし、おかしいと思わざるを得ない行動をしていても、それを否定して改めることができないのだ。だから左翼・リベラルはいつまで経っても失敗ばかりで成功することがない。
彼等に対する思いなど何もないが、反省できる人にとっては失敗例を分析することは重要だ。野中郁次郎先生の名著「失敗の本質」ではないが、日本人・日本の組織は本当に反省ができない。そして、グローバルな視点からなぜ日本人・日本の組織が反省できないかについてはいくつもの研究がある。その結果、反省できない人が発生するのにはいくつかのパターンがあることがわかった。
一番シンプルなのはそもそも自分が何も考えずに行動を行なってしまう場合である。原因はPDCAの「D」の部分だ。自分が原因を作ってしまっているのだが、当人に全くそういう意識がなく、自然に起こってしまった他人事のように捉えてしまう。過失の場合もあるだろうが、刑法でも過失罪が規定されているように責任は発生する。やってはいけないことをやってしまうのだから、本人の責任は重大だ。
次はしらばっくれて見て見ぬふりをしてしまう場合だ。原因はPDCAの「C」の部分だ。やってしまったことは自覚しているのだが、それなりにヤバいことをやってしまったという意識があるからこそ、見て見ぬ振りをしてそこから逃避しようとしてしまう。起ってしまってから、ひき逃げや海外逃亡など「逃げ」に走ってしまう心理である。これも故意に逃げる場合と、無意識的に避けてしまう場合とがある。
最も悪質なのが、自分のやったことこそ正しくて、その責任を問う世の中の方が間違っているという「狂った信念」を持っている場合だ。PDCAそのものがないのだ。これは「人を殺しても正義だから許されるし、正しい行為でもある」という考え方に繋がる。まさにテロリストの独りよがりの論理そのものだ。そして左翼・リベラルの活動家が反省しないのは、この無謬意識に根ざしている。
はっきり言って、こんな危険な考え方の人たちとは、一つの社会の中で一緒に暮らすことはできない。そういう意味では、かつて共産主義諸国を「鉄のカーテン」として封じ込めたというのは正解である。思想信条の自由があるので信奉することは構わないが、共存する気がない人と共存することは不可能だ。こういう人はいてもいいから、どこか辺境の地で一般人と触れることなく生活していただきたいものだ。
(24/12/13)
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