21世紀の働き方
AIの出現によって、仕事を奪われるのではないかと恐怖感にさいなまれている人達がいる。産業革命のときの「ラッダイト運動」ではないが、社会的なパラダイムシフトが起こるときには必ず起こる現象だ。産業革命でさえ新たな雇用を大規模に生み出すきっかけとなったわけであり、人類は変化をチャンスにする力を持っているのだから恐れることはない。
一番誤解があるのは、自分でモノを考えて行動するのが苦手な人が、言われたとおりにやるのなら機械の方が上手ではないかと戦々恐々としている点である。実はそんなことはない。AIが置き換えるのはその部分ではないのだ。だからこそ言われたことをその通りやるだけなのが好きな人にも、ちゃんとチャンスはある。
端的に言えば、人間がAIに使われればいいのだ。ある意味ピラミッド型のライン組織であれば、マネージャーの方こそAI化するメリットは大きい。AIは人間の上司のように、自分の気分や嗜好で選り好みすることはなく、常に最適解を出してくるので、やった結果はきちんと評価される。この一点だけでも組織としてのメリットは大きいモノがある。
また、AIは開発費はこそかかるものの、ランニングコストは現在マネジメント層に支払っている人件費と比べれば大幅に低くなる。これならば、かつての大企業のように仕事をしないで威張っているのみのキャリア組が高給を取り、エッセンシャル・ワーカーの取り分が実態以上に少なくなってしまうという問題も起きない。
一番重要なのはここだ。21世紀の情報社会においては、それにふさわしい雇用や待遇に変化する必要がある。20世紀的・産業社会的な雇用構造に浸り切った人には、情報社会になって社会構造が変化する分、雇用構造も変わってくることに考えが及ばない。このギャップこそが情報社会に円滑に移行する上での大きな問題点となる。
かつての高度成長期までは、機械による情報処理ができず、人海戦術で複雑な情報処理を行わなくてはならなかった。だから必要悪として、そういう処理に長けたテクノクラートたる秀才エリートが重用された。当時は大学進学率が1割台という時代だったので、そういう人材は貴重だったため、需給の関係から高給を出しても確保しておきたい事情があった。
別に秀才エリートが付加価値の高い仕事をしていたから高給を出して雇用していたわけではない。そういう人材を必要とする企業からの求人が、高度成長により高等教育機関からの供給を上まってしまったからそうなったというだけなのだ。リアルタイムではそう勘違いしていた人もいるかもしれないが、21世紀の今から考えればその問題点は明確だ。
結局、高度成長期のニーズに合わせて日本の会社組織が出来上がったために、構造や制度がそこにオプティマイズしすぎたものとなり、社会的状況が変化してもそれに合わせて変わることができなくなってしまった。「日本的雇用」からの修正という対症療法でなんとか凌いでいたが、21世紀に入っての情報社会化の波の中でついに命脈が尽きたということである。
なんのことはない、「昭和の常識を捨てろ」ということに過ぎない。そこに浸り切っていた人が、まだ組織の中に残っていることが問題なのだ。幸いなことに情報化が進んだ21世紀に入ってから育った世代には、そんな刷り込みはない。老兵は、生き残りたければ古い常識を捨てて新しい理を受け入れろ。さもなくば消え去るのみだ。
(25/01/31)
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