ディジタル・ディバイドのウソ






ディジタル・ディバイドというコトバが流行っている。コンピュータが使えないヒト、コンピュータが買えないひとは、差がつき、損してしまうこと言うことらしい。しかしそれは違う。ハイテクは単なる手段。だからコンピュータリタラシーなんていうのは、人間そのものの違いにとっては、大きな意味はない。そもそもコンピュータやネットワークなんて、ただ使うだけならたいした技術じゃない。環境を整えるしにしてもたいした金額でもない。初期においては、確かに値も張ったし、それなりにそういうインフラの違いがクリティカルに見えることがあるかもしれないが、それは時間と技術の進歩が解決することは、パソコンの普及自体をみればわかるじゃないか。

確かにかつては、手段の差がそれなりに影響を持った時代があるかもしれない。それはコンピュータやネットワーク自体が発展段階にあって、まだ未熟だったからそうなるのだ。今はもうそういう段階は越えている。技術は行き着くところまで行き着いた。こういう技術も大衆化、普及品化している。文字やコトバの読み書きとか、クルマや自転車の運転と、そう本質的に違わないレベルにきている。使う目的のあるヒトなら、そう障壁があるとは思えない。文字だって、中世以前においては支配階級やインテリ階級の独占物だった。クルマの運転だって、1950年代ぐらいまでは「運転手」という特殊技能がありえた。要はそういう「時間差」の問題でしかない。

その一方で、これだけ普及が進むと、違う問題が持ち上がってくる。今や「格差」という面で重要なのは、そういう手段のレベルではなく、手段ではフォローできない本質的な人間としての素養、人間としての能力の差の問題だ。手段を利用するテクニックは、いくらでも学ぶチャンスはあるし、操作もどんどん簡単になるが、だからといって「使う目的」を持っていない人間にとっては、手段がいくらあっても何も変わらない。こういう「手段」の普及により、今まで潜在的にしかとらえられなかった、「目的を持っている人間」と「目的を持っていない人間」の違いは、一気に顕在化することになる。

これはゆゆしき問題だ。この「目的の有無」は、即、人間としての中身を反映している。それなりの中身を持っている人間なら、コンピュータやネットワークを使って解決したい課題や、伝えたいメッセージを持っている。逆に、手段が目的化してしまう人間は、中身がないから目的がないという悪循環の結果生まれてくる。このようにディジタル化とともに、人間としての素養、人間としての中身が白日の元に曝され、誰の目にもごまかせない時代になるのだ。例えてみれば、新聞を出しているから偉い、のではなく、メディアは誰でも使えて当然。その中で説得力を持つオピニオンを提示できてはじめて偉い、ということが誰の目にも明らかになるのだ。

ディジタル化により引き起こされる「ディバイド」は、金や教育でかたがつくレベルの、操作能力や環境によるチャンスの違いの問題ではない。人間としての能力の有無、能力の高低が、はっきりとさらけ出されてしまうことだ。これは手先の技術の問題ではなく、全人格的な人間形成をどれだけしっかりやるかという問題だ。いま、能力を持っている人は、何も恐れることはない。これから人格を形成する人は、手先の技術よりも、本質的な個性や人間らしさを伸ばせばいい。これが恐いのは、個性的な内面や、高い人間性を育てることなく、手連手管だけで世渡りしてきた、産業社会の時代に育った「大人」たちだけだ。そういうヒトがこぞって、リタラシーが大事とか、ディジタル・ディバイドの時代がくるとかいって狼少年をやっている。しかし、その茶番はもう明白だろう。

この話題は昔から何度も比喩にしているので食傷気味だが、たとえばコンピュータ・ミュージックだとか、デザイン作業におけるDTPの普及だとかが、何をもたらし、何を変えたかを振り返ってみれば、結論は容易にわかることだ。かつては、楽器操作にしろ、版下制作にしろ、技能があるレベルに達するまでの基礎技術修得に、相当の努力と労力が必要なものだった。それが音楽家やデザイナーのステータスとさえなっていた。言い方は悪いが、その努力のプロセスという「非関税障壁」にまもられることによって、本質的な音楽の才能は並のプレイヤーでも、大家でございという顔でイバることができたのだ。デザインワークでも、手先が器用なだけで、本当のビジュアルイメージの構築力がなくても、デザイナーとしての仕事はいくらでも取れた。

で、コンピュータの普及である。コンピュータの操作は、楽器の修得や、写植貼りのテクニックに比べれば、誰でも容易にマスターできる。いままでの「大御所」のよりどころだった「非関税障壁」は簡単に崩れてしまった。コンピュータ化で起こる変化は、ディジタルディバイドの逆なのだ。その結果起きるのは、本当にその分野での才能、音楽でいえば音楽センス、デザインでいえばアートディレクション能力があるかどうかが、ストレートに実力差としてあらわになるということだった。つまり能力の有無がクリティカルな問題となってきた。これが、ビジネスでも、社会でも、政治でも、あらゆる局面で現れてくるようになるというだけのことだ。

実はコンピュータというは敷居が低い。アナログの徒弟制度的・体育会的な技術に比べれば、実に修得が容易だ。要はマニュアルを見ればいいのだから。それが容易だからこそ、ある種の権威による「非関税障壁」はなく、ストレートに本質的な能力の有無があからさまになる。そして、その能力の価値が問われてしまう。これが本当の問題なのだ。「手先の器用さではなく、本当に能力の有無が問われる」ことに気付いて、これに対応できない人間が、慌てているだけだ。これについては、そういうマヤカシが通じて、それで喰っていけた「産業社会」の方がおかしいというべきだろう。ディジタル化により、人間社会の原点に戻れた。それだけのことだ。

トータルな人間としての評価には、優劣も、一流二流もない。あるのは個性の違いだけというのは充分に認めるところだ。しかし、ある分野の特定の能力に限って評価するならば、明らかに万人平等ということはありえない。一流の人間もいれば、二流・三流の人間もいる。差は歴然とあるのだ。これを受け入れることがまず大事だ。ディジタル・ディバイドされるのは、コンピュータリタラシーの有無ではなく、人間としての能力の有無だからだ。どこかの領域で、このような強みがきちんとあれば、何も恐れることはない。もっとも強みがどこにもない人間は、そりゃ人間ヤメてもらうしかないだろうが(笑)。

(00/04/21)

(c)2000 FUJII Yoshihiko


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