学びのプロセス





人類百万年の歴史を紐解けば、そのほとんどの時代、学びは自分の人生における経験から得られるモノであったことがわかる。高等生物であるならば、その程度の差はさておき「ある程度の学習能力」は保持している。哺乳類などはかなり高度に学習することは、犬のシツケや訓練をみればよくわかるし、障害レースの馬が障害の越え方をマスターしていくことも容易に理解できる。

自分で学び、それをそれ以降の日々で生かす。その機能はこのように動物の本能の一部としてビルトインされたものと言って良い。もちろん人間も類人猿たる哺乳類であり、動物の性から逃れることはできない。「三大欲望」ではないが、生理的機能として自分の経験したことを学習し、それをそれからの生活の中で活かしていくというのは、人類にとっても最も基本的な「学び」のスタイルだ。

しかし、人類は言語能力を獲得し、「コトバ」を発明することができた。これは違う個体の間で情報を共有するという、今までになかった可能性を生み出した。もっとも、幸島の京大研究所の猿のように、言語を持たない動物でも、見様見真似で「文化」が伝わる例も発見されているので、集団生活を行う動物の間では、本能的に情報を共有したいという願望があるとも考えられる。

言語の誕生は、一人の個人の経験を超えてノウハウを共有できる可能性をもたらした。もちろん個人の経験が基本となるのは間違いないが、それを補助するカタチで、所属する集団の経験豊富な先達から経験談を聞いて学ぶというスタイルが生まれてきた。これによって、誰かが得られた経験を、その集団共有の文化として伝承し、発展・継承させることができるようになった。

すると今度は、その「発展・継承」をよりシステマティックに行う方法として、教育システムが生まれてくる。そして、その教育システムで伝えるべき情報は、人類が歴史を重ね、より多くの経験を積んでゆく中で膨大なものとなってゆく。当初においては、全ての人にそのような教育機会があったわけではなく、特定の支配階級や知識階級のメンバーのみが対象となっていた。

古代から僧侶のような知的エリートに対しては独自の教育システムがあったのは確かである。このような状況は多少拡大するものの、中世まではそのまま継承された。だが、近世になって社会の理が複雑になり、それをマスターしていなければ世渡りができなくなると、一般大衆に対しても教育システムにより「読み・書き・ソロバン」が教えられるようになった。

このような公教育に基づく大衆教育システムは、300年近くに渡って続けられるとともに、近代社会に入ると近代化を目指す各国で踏襲されたため、20世紀の社会においては、教育といえば即このような近世以降の大衆教育システムとことを意味するようになった。それとともに、このような教育システムこそが、学びのプロセスの到達点なのだと思われるようになった。

しかし、それは社会の変化が急激なワリには社会の情報化が遅れていて、社会的制度によりそれを補完する必要のあった近世・近代社会特有のシステムである。このように人類における「学び」の歴史を考えてみれば、現行の教育システムが永遠・絶対のものではなく、産業社会に特化した浮世の夢のような儚いものであることは容易に理解できる。いつかは用済みとなるし、その時はついに来た。


(25/02/14)

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