推論と判断





21世紀の情報社会は、20世紀までの産業社会とはパラダイムシフトと言える大きな違いがある。その多くをここでの論考の対象としてきたように、変化が起こる対象は広範な範囲に及ぶ。目にみえる現象面や、成文化される制度面などについては変化が理解しやすいが、外見は似ていてもソフト面というか「やり方」の変化が大きいものにも注目する必要がある。人々がモノを考えるプロセスもその一つである。

産業社会的な「モノの考え方」というと、テクノクラート的な秀才エリートの思考プロセスが典型的だろう。秀才エリートにとっては、推論も判断も過去に勉強した知識や経験から演繹的に行うというのが常識であり常道だった。そしてそのスタイルが、学校教育などを通して社会的な「モノの考え方」として共通認識となっていた。しかし、それは「追いつき追い越せ」の明治以来の促成栽培教育が生み出した徒花であった。

日本が開国した19世紀の半ばは、大英帝国をはじめとする帝国主義の最盛期であり、日本も列強の支配下に置かれる危機の真っ只中に飛び込むこととなった。そのリスクを躱すためには「追いつき、追い越せ」で列強並の国力・経済力を持つことが必須であった。幸い、豊かな江戸時代に蓄積された富もかなりあり、教育レベルの高い(列強各国よりも文盲率が低かった)人材も充分にあった。

足りないのは、西欧先進国の先端技術だけである。これも、かつて「種子島」として見様見真似で西欧式の銃器を作って以来の伝統で、高度な職人技術の蓄積があったため、知識を学びさえすれば、それなりに器用に技術をこなすバックグラウンドはあった。これらの蓄積を前提に、列強に対する素早いキャッチアップを図るために、「とにかくベンチマークして学ぶ」という「パクリ教育」が主流となった。

この弊害として、「自分でモノを考えて答えを出す」という本来の科学的思考力を養うことが、教育において軽視されるようになってしまった。2番手以降の「追うもの」だった時代は、これでもなんとかなったし即成栽培という意味では効果があった。だがいつも言っているように「スリップストリーム走行」でしか速く走れないレーサーは、トップが自滅してリタイアしない限り優勝はできない。

21世紀に入って産業社会から情報社会に変化すると、日本はこの「アキレス腱」が切れた状態になってしまった。真にモノを考えなくてはいけない時代に、モノを考えられる人材が乏しい。近年の日本の衰退の真の原因を考えるのなら、問題は何よりここである。開国以来の2世紀弱、「追いつき」に最適化し過ぎた社会制度を構築してしまった弊害といえる。ではどうすればこの「国難」を乗り切ることができるのか考えてみよう。

情報社会における「モノの考え方」は、推論も判断も、まずひらめきにより思い付き、その正当性を帰納法的なバックキャスティングの思考実験により証明することで太鼓判を押すモノでなくてはならない。それでOKならば、実施フェーズに移行すればいい。演繹からは情報社会で求められる「答え」は出てこない。そのプロセスはAIに任せればいい。「ひらめいた」答えから機能的にソリューションを導くのが人間の役目だ。

もちろん、「ひらめき」の中には過去の経験や知識も活かされることは間違いない。しかし、経験も知識もない人が素晴らしい「ひらめき」を得てしまうことも皆無ではない。音楽の知識も経験もない人が、素晴らしい曲を書いてしまった例も、歴史的にはいくつもある。ある意味、いわゆる「一発屋」にはそのタイプが多い。が、それが起こるのは隕石が命中して死ぬのより低い確率だろう。

いずれにしろ「天才のひらめき」には、今までにはなかった何かが含まれているのが特徴だ。だからこそそのアイディアを実行することにより情報エントロピーが減少する。ここが情報社会では重要なのだ。AIでは情報エントロピーを減少させることができない。ネゲントロピーを生み出すのが天才の秘密であり人間の役割なのだ。だからこそ考えに考え抜いて「捻り出す」ものではなく、「降ってくる」ものでなくてはならない。

降ってくるプリプロセスとして経験や知識が生きることは多い。だが、その瞬間はあくまでも「降ってくる」もので、演繹的に導き出すモノではない。創作活動を行ったことのある人ならわかると思うが、考えて捻り出したものは、ロクなものにならないし、人の心を動かす作品にはならない。一時の興味を惹き刹那的な快感を与えることはあるかも知れないが、心に残ることはない。真の意味での創作とは、情報ネゲントロピーを生み出すことだからだ。

これからの世の中は、人間に求められる役割が変わる以上、人間を評価する軸も大きく変化する。秀才エリートはもういらない。勉強ができるヤツももういらない。秀才に求めてきたものは、AIに任せれば人間以上のパフォーマンスでさらっとこなしてくれる。その一方で人間は天才のひらめきを輝かせればいい。この評価軸の転換を理解できないようでは、これからの時代の世渡りはできないだろう。


(25/02/21)

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