歴史とファクト
バブル期からも半世紀近くが過ぎ、昭和も歴史の中で語られるようになった。しかし、人生100年時代と言われるように長寿命化しているため、自分を含め昭和を実体験した人もまだまだ多い。そんな一人として感じるのは、歴史として語られることと、実際の空気感としてリアルタイムで感じたものとの差の大きさである。確かに歴史としてみた方が客観的な情報は多く、ある意味史料から実証されている分正確とは思う。
しかし同時代人から見ると「歴史」にはリアリティーがなく、何か大事なものが抜け落ちているような気がする。それは当時の人々がその「歴史的事実」をどのように受け止め感じ取ったかという「主観的」な視点である。好意的に取れば、歴史として俯瞰した方が、その時代を生身で過ごして受け止め理解できた以上の情報を前提に物を考えることができるということになる。が、それだけがリアルではない。
ビートルズは後半期はリアルタイムで「新譜」を聞いていたが、その時リアルタイムで得られたビートルズの情報は極めて限られていた。しかし、今ではビートルズの全活動時期に対して、1日1日何が起こってどうなったかが詳細に調べられ出版されているので、その克明な活動を理解し把握することができる。これはリアルタイムでは到底不可能なことである。
その一方で、当時の日本のリスナーがビートルズの新譜をどう受け止めて、どう心をときめかせたのかは、調べようと思っても難しい。インターネットで調べようと思っても、リアルタイムで聴いていたファンがBlog等で思い出を語ったものが出てくるのが関の山だ。本気でやるのなら、当時のリスナーにヒアリングしてオーラルヒストリーを集める必要がある。それをやるなら、当事者が記憶を語れるあと10年程度が限度である。
「歴史」になった情報には、こういう「特徴」がある。客観化されるがゆえに、当時リアルタイムで人々が感じたリアリティーがそこから消えてしまうのだ。ビートルズの例で言えば、今やビートルズ世代と呼ばれる団塊世代の人達の中でも、当時ビートルズのファンだった人達は少数である。60年代後半でも、10代・20代の若者が熱狂していた音楽は、なんといっても歌謡曲であった。
もっと視点を社会全体に広げると、ビートルズのブームのような若者世代の台頭を「断絶の時代」と称して心よく思わない「大人世代」の方が数的にも影響力的にも大きかった。ある意味、ビートルズのような「洋楽ロック」は、当時の言葉で言えば「反体制」の象徴だったのだ。これは当時の空気を知っている者にとっては常識だが、歴史としてビートルズを学んだ者にはリアリティーが感じられなくなっている、
これはとりもなおさず、歴史として「ファクトとして語って」しまうことにより、善悪・当否といったシンプルな二項対立的な議論になるとともに、このファクトこそが正しいのだという論調になってしまいがちだからである。そこでは当時の人ならば皆皮膚感覚でわかっていた複雑な裏事情がすっ飛ばされてしまう。同じことに出会っても、いいことと思う人も悪いことと思う人もいる。これこそが生身の人間にとってのファクトだ。
ファクトは実はそちらの生身の人間の感情の中にこそ潜んでいる。ビートルズがいつ何をやったかより、そのビートルズの行動が社会からどう受け止められ、どういう影響を与えたかの方が本当の意味での歴史である。歴史が人類社会を語り記述するモノである以上、この「人々に引き起こした感情的変化」こそが真の影響であり、歴史のファクトである。AIとは違う人間らしい歴史の読み方もここにあり、21世紀における人間のあり方を考える上での重要なヒントともなるのだ。
(25/03/07)
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