レガシーとなった大企業





2000年代に入った頃から、気の利いた高校生は、「一流大学に入って一流企業に就職する」という道を目指さない傾向が顕著になった。企業への就職を目指すものは、海外の大学に入学しそこからグローバル企業のヘッドクォーターを目指す。一旗上げたいと願うものは、自らスタートアップを目指す。自分で事業を起こすためのプロセスとして大手企業へ就職する者はいても、それを最終目的とはしなくなった。

それは若者たちが彼らなりの新鮮な視線で、大企業の終焉を見据えるようになったからである。この場でもすでに何度も論じたように、21世紀の情報社会においては「巨大な組織」は意味を持たない。それは20世紀までの産業社会だからこそ存在理由があったものの、そのバックグラウンドたるスキームがチェンジしてしまった以上、糸の切れた凧である。

そもそも大企業というあり方自体が、スケールメリットこそが王道だった産業社会特有の事業の手法だ。すでに何度もここで語っているが、産業革命以降の機械化で生産力自体は飛躍的に増大したが、それに伴う情報処理は、組織による人海戦術に特化せざるを得ず、大企業という形態が生まれた。そうである以上、世の中の大企業のほとんどは産業社会にオプティマイズしたレガシー企業となっている。

もちろん20世紀後半になりコンピュータとネットワークが発明され、情報処理自体も機械化され、今の21世紀的な情報社会への道筋が開かれたことがいうまでもない。だかそれまでの約200年に渡って、高度に成長する生産力に対応すべく、産業社会の時代をを通して人海戦術で情報処理をこなすための組織のあり方はブラッシュアップされ、高度な組織論が構築された。

その時代に育ち、その時代に合わせた教育を受けてきた我々をはじめとする今生きている人にとっては、組織といえばそういう「産業社会型組織」が常識であり、その中で社会人として仕事をするというのが当たり前のように刷り込まれてきた。そして、今や21世紀となり情報社会が到来した。そうである以上、20世紀的な産業社会の常識は捨て去らなくてはならないものとなった。

21世紀の情報社会の特徴は、情報処理に人海戦術がいらないところにある。AIとネットワークが全てそれを行ってくれる時代になった。ヘッドクォーターには、モノを考えて決断する少人数の責任ある人がいればいい。かつてテクノクラートがこなしていた作業は全て機械がやってくれる。そういう意味では、人海戦術の情報処理など、本来人間がやるべき作業ではなかったのだ。

そうである以上、今や組織にとっては「人」が最大の負債となった。かつては人を多く抱えることが、多様性という意味でも、冗長性という意味でも、組織が組織として粘り強い力を発揮するための最大の武器と思われていた。確かに情報処理の機械化が遅れていた産業社会の時代においては、それは真実だった。しかし、今やパラダイムシフトが起こってしまったのだ。

特に情報処理のためのテクノクラートを多く抱えた組織は、秀才エリートを確保するために必要以上に人件費をかけていただけに、これからは無用な人件費だけが嵩むことになる。昭和の時代から、日本の企業は工場の生産性が高いが本社ホワイトカラー部門の生産性が低いことが構造的問題として指摘されていた。それでもなんとか回っていたものが、首の皮が繋がらなくなったのだ。

ここにきて、運営上必要がなくなった社員を容易に解雇することができない日本の労働法規の桎梏が、企業に重くのしかかる。特に所帯が大きい分、不要な社員も莫大な数になってしまう「大企業」は化石化せざるを得ない。国際競争力という面では重大なハンディーキャップだ。そこにメスを入れられない以上、企業自体を存続できなくして解体するしか対応法はない。

その分スタートアップ企業は、最初からその部分をAI化し情報社会に合ったスリムな本社にできる。そういう意味では、まさに「老兵は消え去るのみ」。「大企業」は解体され、その後に小粒でも切れ味の鋭い企業が生まれてくるというのがあるべき姿だろう。今後とも必要とされるコンピタンスを持った人間はそこが吸収すればいい。若者の意識という意味では、すでに20年ぐらい前から水面下ではそのような胎動が起こっていたのも確かなのだが。


(25/03/28)

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