手段の目的化





ここでもすでに何回も論じてきたテーマであるし、それ以上に70年代の「マイコン革命」に直面して以来直感し、ライフワーク的に捉えてきた「コンピュータはコンピュータの上に人を創り、コンピュータの下に人を創る」問題。21世紀に入り情報社会が到来し、AIが実用化することによって、ついに世の中一般に広く認識されるテーマとなった。

その典型が産業革命時のラッダイト運動のように、AIを敵視する人達の存在である。要は彼らは機械でもできる(さらに機械の方が「ウマい・安い・早い」の吉野家効果で人間にはかなわない成果を出してくる)ことしかできないが故に、機械が自分を否定していると思い込み、それにより自分のアイデンティティー自体が失われると思って焦っているのだ。

特に、絶え間ない「勉強」により知識を築いてきた「秀才エリート」や、長年の修練により超絶技巧を会得した「職人」のように、そのスキルを得るために多くのリソースを費やした「努力」を行なってきた人ほど、自分のアイデンティティーがその「費やした努力の量」にあると思っているがゆえに、そこを機械にあっさり超えられてしまったのでは立つ瀬がなくなってしまう。

であるがために、自分の客観的な能力を顧みず、ひたすら変化を否定したがるという「他責行動」に走ることになる。このようなバッドサイクルに入ってしまうのは、そもそも自分の人生におけるロールモデルや目指すべきキャリアパスがないまま、「知識」や「技術」を習得するという「沼」にどっぷりと入り込んでしまったからである。

あくまでも「知識」や「技術」は目的を達成するための手段に過ぎないのだが、目的が曖昧なまま手段の習得に没頭してしまうとこうなりがちである。そして「知識」や「技術」の習得が容易ならざるものに関しては「アカデミズム」や「職人芸」のように、本来手段であるべき高度な「知識」や「技術」をマスターすること自体が目的化してしまいがちなのだ。

人海戦術が基本だった産業社会の段階においては、あらゆる局面でこのような「職人芸」が求められたことにより、社会全体で手段の目的化が引き起こされた。教育制度もそれに特化したものとして整備された。それは産業社会においては極めて効果をあげ、先進国においては高度成長を実現するための強力な武器として、普遍的なシステムとして幅広く取り入れられた。

典型が「秀才エリート」である。蓄積した知識をベースに演繹的にモノを考えるのが特徴だ。彼等は高偏差値を取ることには長けているが、今までにない創造や肚を括って責任を取るリーダーシップには向いていない人が大半である。それらをこなすにはヒラメキにより直感的に「目的」をイメージすることが求められるからだ。これはテストでいい点を取ることとは違う。

「秀才エリート」がトップになりがちな「サラリーマン社長」の企業は、右肩上がりの追い風の時には左うちわだが、一旦逆風に煽られるとたちまち打つ手がなくなり業績が悪化しがちである。これは彼等には本当の意味での「目的」がわかっていないからだ。理念のない企業は逆風に耐えられない。そして理念はトップがヴィジョンとして自ら示さなくてはならない。

高偏差値や高学歴はあくまでも手段であって、目的は問題解決であったはずだ。超絶技巧の職人芸も同様である。そして手段は機械が全てこなせる時代になった。人間の役割は、「目的」を戦略的に立案することだ。そして、それが本来のあり方である。「手段の目的化」は20世紀を風靡したものの、今や時代遅れの勘違いに過ぎない。勉強や努力はいらない。才能だけがモノを言う時代なのだ。

(25/04/04)

(c)2025 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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